しあわせの樹

2章 落葉の記憶 (後編)


 記憶喪失の少女。
 ユリアは、自分の核となるものを見失ったまま、 その少女時代を過ごした。住処はシレジアの山奥で、 ロプト教団に見つからぬよう、外出は極力控えていた。 育ての親であるレヴィンは彼女を甘やかさず、 世話は最低限にするよう心がけていた。 そのかわり、多くの書物を与え、歴史や魔道などの教育を施した。
 その結果ユリアは、炊事洗濯から読書に至るまで、 生活の殆どを独りで黙々と過ごすことになった。

 「わたしは、どこから来て、どこへ行くのでしょうか…?」
 少女時代、ユリアがぽつりと訊ねた言葉がある。 ユリア自身、自分がどのような意図を持ってこう言ったのか、 よく把握できていなかった。
 「自分の行きたいところに、行くがいい。」
 それがレヴィンの答だった。
 「わたしは、わたしの行きたいところは…?」
 いくら考えても、答は出なかった。
 ただ、それは大切なことのような気がした。

 それからユリアは、ことあるごとに「なぜ」と考えるようにした。
 自分が人間として生きるためには愛する者を殺さねばならないと知りながら それを実行できず、ただ独りで消え去った姫の物語。 彼女はなぜ、自分の命を選ばなかったのだろう。
 自分の身体を他人に分け与え続け、ついに身体全体を奪われて、 それでも微笑みながら死んでしまった男の寓話。 彼はなぜ、幸せを感じていたのだろう。
 理解しにくい「なぜ」も多かった。それでもユリアは、 「なぜ」と問いかけ続け、人の気持ちを理解しようと努めた。 自分の考えをまとめ、レヴィンに伝えることもあった。 レヴィンは「ふむ、面白い」とだけ述べ、ユリアの考えの是非については 一切論評を加えなかった。

 ある日、圧政下の村を訪れたユリアは、 降りしきる雪の中、泣き叫ぶ子供が屈強な鎧兵士二人に引きずられて 家から連れ出されているのを見た。 すがりつく母親を蹴り飛ばし、兵士は子供を抱えて去っていく。
 「…なぜ、このようなことが?」
 いくら考えても、結論は出なかった。 レヴィンにそのことを尋ねたら、あれは子供狩りだ、と説明を受けた。
 「ロプト教団は勢力拡大のため、子供を無理やり連れ出し、 子供同士で殺し合いをさせ、残ったものをロプトの僕とするよう 定めている。今回のやつらも同じだろう。」
 「…それでは、あの子供たちは…。」
 「かわいそうだが、助かるまい。」
 「そんな…罪もない子供が…!」

 ユリアは、気づいた。
 この世界には、ねじれた現実が存在する。
 帝国兵は村人から略奪し、子供をも奪う。 自分も含め、誰もそれを止めることができない。
 大きな悲しみが、広がった。
 「魔法を使えば、身を守ることができるだろう。」
 そう言われて身に着けた、光の攻撃魔法。 人を殺すための、魔法…。ユリアは、それを使う気にはなれなかった。 だが、それを使わずにはいられない場合があることを、 しくしく痛む胸のうちに悟っていた。

 レヴィンから、ユグドラルの歴史、シグルドの足跡、 そしてシャナンたち解放軍の存在を学んだとき。 ユリアは、自分の殻を破りたいという自分の声を聞いた。
 レヴィンに頼み、シレジアを旅立ち、 二人でイザークへと向かった。

 「ユリア、さびしいだろうけど心配は要らないよ。 ぼくがきみを守るから」
 あたたかい雰囲気を持つセリスとの出会い。
 この人には、何かがある。わたしの求めるものがある。
 ユリアは心が高ぶるのを感じた。それは、生まれてはじめての 感触かもしれなかった。

 セリスのみならず、ラナ、ラクチェ、フィー…解放軍の仲間たち。 無口なユリアにも、粘り強く、愛想良く接してくれた。
 リライブの杖を手に負傷者を回復すると、みんな喜んでくれた。
 自分が力を振るうことで、人の命を救える。感謝をもらえる。
 ユリアは、ここに自分の居場所を見つけたように思った。

 戦いのさなか、敵兵士と切り結ぶセリスの背後から、 もう一騎が槍を携えセリスに突進してきた。
 いけない。このままでは、セリス様が!
 …そう思う間があったかどうか。ユリアはとっさに、 詠唱を開始していた。セリスからもらった本が開かれ、 まばゆい光が解き放たれる。
 馬上の敵はどうと倒れ、動かなくなった。
 「ありがとう、ユリア。」
 敵をすべて片付けた後、セリスは剣についた血を拭きながら ユリアに笑いかけた。ユリアの表情は、凍りついたままだった。
 ユリアが倒した敵。
 鎧からのぞく腕は異様に痩せこけ、顔はかさかさに干からび、 陥没した眼窩から黒目が半ば飛び出ていた。 ぴくりとも動かない。息もしていない。それ以上に、 身体に水分がまるで無いように見える。
 …死んでいるのは、明らかだった。
 「わたし、わたしっ…」
 ユリアの身体がふらふらっと揺れ、膝ががくんと崩れる。
 意識が遠のきそうになる中、かろうじて転倒を免れたのは、 セリスが抱きとめてくれたからだった。

 「…わたしは…はじめて、殺しました…人を。」
 軍に入るときから。いや、魔道を学んでいたときから、 覚悟していたはずのことだった。 セリスたちの剣が人の首を飛ばすのを、間近で見たこともあった。 …それでも。
 魔道所を持つユリアの手は、憑かれたかのようにがたがたと震えていた。
 セリスは周囲を見回し、敵がいないことを確認すると、 冷たく痙攣するユリアの手をそっと握り、目をじっと見つめた。
 「ごめんね、ユリア…きみの手を、汚させてしまって。」
 その青い瞳に潜む悲しみの色が、ユリアには理解できた気がした。
 「いえ…よいのです。わたしは、命の重さを感じることができました。 セリス様がいつもしていることが、これほどのものだなんて…、 はじめて、知りました。わたしは…どうすれば…」
 ユリアの手を握るセリスの手に力がこもり、 セリスは深呼吸して言葉を継いだ。
 「つらいなら、戦いをやめてもいいよ。 きみは記憶がないんだから、不安だろう。 …ただ、ぼくの望みを、一つだけ言うよ。 …殺してしまった人たちに、ユリアが、押しつぶされてしまってはいけないよ。 …立派に、生きてほしいんだ。…この人の分まで。」
 その言葉だけで、自分が赦されたとはユリアには思えなかった。 実際、赦されてはいないのだろう。ただ、自分はまだ生きなければならない。 そう感じた。
 「セリス様…これからも、わたしの話…聞いて、くれますか?」
 「うん。…ユリアの話が聞けるなんて、嬉しいな。」
 戦争にかかる命の重さを、セリスに教えられた日だった。

 十人、五十人、百人。積み重なってゆく。
 ユリアの杖により救われた命たち、光により散り去った命たち。
 「本当は、いつだって殺したくはありませんでした。 ですが、世界に闇は深く…わたしは、戦いを選びました。 圧政を、子供狩りを、止めるために。」
 …セリス様のために、人々の幸せのために。

 はじめてセリスの涙を見た時、ユリアの胸はきゅっと締め付けられた。
 高い理想を掲げ、時に妥協しつつも、できる限り理想に近い結果を残そうと 懸命にあがくセリス様。優しさと厳しさを併せ持つセリス様。 自分よりよほど大きな命の責任を持ち、それを自覚し、 それでも押しつぶされずに前に進むセリス様。
 その強さに驚き、あこがれた。同じ人とは思えないほど、凄かった。
 過酷な風に立ち向かう彼を、少しでも理解し、支えたいと思った。
 …だから、セリスに告げたのだ。
 自分のもとで、泣いてほしいと…。

 戦争の意義、人を殺す是非。 命の重さ、思い描く理想、現実との比較、実行する力。 勝つこと、戦いを終わらせること。その先のこと。
 戦いの合間に、自分の思いを訴えかけ、さらけ出して、 セリスと議論を戦わせた。作戦会議にも出席し、必死で考え続けた。
 自分もまた、強くあらねば。
 セリス様のように。セリス様のように…。

 そんなある日、ユリアは夢を見た。
 小さな家の中で、ユリアの得意料理であるクリームシチューを 美味しそうに食べているセリス。 ユリアの腕の中で、青い髪の小さな赤ん坊が静かに眠っていた。
 たったそれだけの光景。それが、ユリアの脳裏に焼きついて、 ずっと離れなかった。自分の心の中に、すっと入ってきて、染み付いた。
 なぜそれを忘れられないのか…分からなかった。 わけのわからない夢よりも、目の前にある戦いのほうが大切。 そう自分に言い聞かせ、ユリアはその光景を心の奥底に封印した。

 なぜなのだろう。
 孤独でも平気なはずの自分が、セリスの近くには行きたかった。
 セリスにだけは、たくさんの思いを語りかけようとする自分がいた。

 孤独だった自分の友となり、居場所を作ってくれたのは、 ラナ、ラクチェ、レヴィン、他にも多くいた。
 だが、背負う使命の大きさに正面から立ち向かう姿に感銘を受け、 このひとのようになりたいと感じて努力を重ねた相手は、 セリスだけだった。



 セリスとユリア。
 互いに心のすべてをさらけ出し、思いの全てを言葉にし、 あらゆることを話し合った相手だった。


 ユリアとともに泣き、笑い、語っていくうちに…
 セリスはいつしか、はっきりと意識していた。
 自分の安らぎは、ユリアがもたらしてくれることを。
 自分が明日へ進む力を、ユリアが与えてくれることを。
 自分には、ユリアが必要であることを。

 戦争が終わっても、ユリアには自分の隣にいてほしい。 自分の補佐役として?…いや、それだけではない。 政務に疲れた自分を、力づけてくれる存在として。 仕事だけではなく…自分の生活のパートナーとして。

 ……ユリア…戦いが終わったら、言うよ。
 ぼくは、きみと…。


 セリスとともに戦い、寄り添い、語っていくうちに…
 ユリアはいつしか、ぼんやりと感じていた。
 自分の居場所は、セリスの隣にあることを。
 自分が考え、戦う力を、セリスが与えてくれることを。
 自分には、セリスが必要であることを。

 戦争が終わったら、わたしはどうなるのだろう。 今度こそ、人を殺すことのない、安らかな暮らしを始めたい。 セリス様は、どうするのだろう。 わたしをそばに、おいてくださるのだろうか。

 ……セリス様…戦いが終わったら、お尋ねします。
 わたしは、あなたの…。



 時は流れた。
 セリスとユリアの間を運命の手が引き裂き、 そして再び二人が出会ったとき。
 すでに時代の激流は、セリスとユリアの胸に芽生えていたはずの 小さな想いを、根こそぎ押し流していた。
 後に残ったのは、二人は兄妹であり、セリスがユリアの父を殺し、 そしてユリアが双子の兄を殺す運命の聖戦士であるという現実。

 セリスと手をとりあって立ち向かった戦争。 セリスのようにありたいという努力は、 ユリアの心を強靭なものとしていた。
 奪う命と、救える命と。ひたすらに考えた末に。
 「わたしは戦う。逃げたりはしないわ」
 「そうか…ユリアは強いな」
 二人が口にできたのは、それだけだった。
 そして、戦争は終結した。



 「ふう…。」
 思わず漏れたため息が、セリスとユリアの意識を 元の世界…書庫の中に戻した。
 ずいぶん長い夢想に耽ってしまったようだ。 回想を止めて仕事に集中させる、ということに、相手は気づかなかったのか? 互いにそう思い、目が合い、苦笑いする。

 戦いが終わって今。
 ユリアは、シグルドへのつぐないをすると宣言し、 ひっそりと祈りを続けている。
 戦争犯罪者とせざるをえないヴェルトマー家。その血に連なるものとして、 ユリアは政治の表舞台に出ることを避ける意向もあった。 だが、セリスは非公式にユリアとティールームで雑談し、 政治の話を持ちかけては、ポイントをおさえたアドバイスを得ていた。

 ユリアを信頼しているセリス。
 セリスには率直に話せるユリア。
 周囲から見れば、二人の関係はこれまで通り自然であり、 変わっていないように見えた。

 窓の外をはらはらと落ち、地面を覆いつくす葉のように。
 二人の思い出は、二人の信頼は、積み重なって厚みを増していくだろう。
 たとえその中に一枚だけ、まだ落ちるべきではない緑の葉が 混じっていたとしても、落葉を積み重ねて隠してしまえば、 いつしか忘れ去ることができるだろう。
 ……本当に?

 何でも話し合え、何でも理解しあっていたはずの、唯一の相手。
 だが、世の中に不変なものなど、ありはしないのだ。
 触れることのできない、ただ一つの烙印。
 セリスとユリアの間に、告げることのできない何かが存在することさえ、 二人はまだ気づいていなかった…。



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