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しあわせの樹
2章 落葉の記憶 (前編) 徐々に弱くなりつつあるやわらかな陽に照らされつつ、 紅葉の季節を過ぎた葉が一枚一枚、落ちていく。 部屋の中では、その陽が窓から差し込むのを避けるように、 年季の入った木製の書棚がずらりと並んでいた。 その中に入っているのは、こちらも劣らぬ齢を重ねて 古さという名の威厳を身にまとった巻物や書物たちである。 その中の一つを机の上に広げていた彼は、突然に、だがごく自然に、 軽い歌声を紡ぎ始めた。 「…黒騎士ヘズル、魔剣ミストルティンをもって闇を裂き 聖剣士オード、神剣バルムンクをもって闇を打ち払い 聖騎士バルド、聖剣ティルフィングをもって闇をてらす …そして最後に聖者ヘイム、ナーガの聖書をもって天にいのる…」 書庫の中央にある椅子に腰掛けて歌っているのは、国王セリス。 その表情には、面倒ごとから一時的に解放された安堵と ささやかな自由への感謝を見て取ることができただろう。 これまでセリスは、寝る間をも惜しんで国土復興のために働きづめで あった。それはセリスが自ら望んでそうしたのであり、 現在行っている書物調査もまた激務の一環であることに変わりはなかった。 だが、謁見の際のごてごてした着物から解放され、気楽な服装で 旧王家の制度の把握という名目で貴重な書物と向き合い、 一人になる時間が与えられるのは、セリスにとって つかの間の気分転換として感謝すべきことであった。 彼は、別の書物を棚に戻そうとするもう一つの人影を横目に見つつ、 伝説の詩を、ごくささやかにさえずりつづけた。 「…いのりは光、光は白い竜となり 暗黒の竜に戦いを挑む 白き竜と黒き竜、光と闇の、 いつ果てるともしれぬ長い戦い いきつくところは勝利か、それとも死か…」 ふと、そこまでで歌声が途切れる。 歌い続けるセリスをやわらかく見つめる二つの目に気づいて、 照れくさくなってしまったからかもしれない。 「ああ、ごめん、うるさかったかな。」 セリスが問いかけた相手は、 普通の長スカートにカーディガンを羽織った質素な服装ではあるが、 国王の妹、ユリアである。彼女はあくまで穏やかに応対した。 「いいえ。…良い歌ですね、にいさま。」 「『光をつぐもの』。この古文書に詩が載っていてね。 懐かしい歌を、思い出したんだ。 ぼくは、レヴィンにこの歌を習ったんだったかな。 その頃よく聞いてたイザークの民謡とは違う節回しで、好きだったな。」 「…わたしも、レヴィン様から聞いたことがあります。 …いいえ、最初は…お父様から聞き覚えたのでしたか…。 とても悲しく、それなのに希望に満ちた歌だと感じました。」 そんな会話を交わしている間に、ユリアがセリスの席の背後まで歩き、 その古文書を覗き込むようにする。 二人の、好きな歌。また自然に、声が流れ出す。 「…だが私は恐れはしない、 たとえ我らの戦いが敗北に終わろうとも 我らが求めた光は決して失われはしない 私は信じる 我らの心を受け継ぐ者を 私は信じる 我らの光をうけつぐものを…」 知る人ぞ知る美声、セリスのテノールとユリアのメゾソプラノ。 聴衆も誰もいない二人だけのコンサート。 二人の歌声はやわらかく調和し、見事なハーモニーを見せた。 少し離れた位置にある窓の外を見やると、 ちょうど一枚の葉がひらひらと落ちていくのが見えた。 一枚一枚、地面に積み重なり、下にある石や草や 葉を覆い隠していく。 正面に古文書を、横目に互いの表情を、遠くに秋の光を見ながら。 セリスとユリアの意識はいつしか、昔の刻へと飛んでいた―――。 光の公子。 それは、セリスをたたえる称号であると同時に、 彼を縛り付ける呪縛でもあっただろう。 セリスは、光の公子という星の下にこの世に生を享け、 光の公子として育てられたと言ってよい。 戦争中も、彼は救世主たることを求められ、 その通りに振る舞ってきた。 それが彼の心にいかに負担をかけたのか、知る者は少ない。 「ぐあっ!」 レンスターの東にある、海岸沿いの村で。 帝国の魔道士は一瞬の隙を突かれ、剣で首を突き抜かれて 血飛沫を上げ、どうと大地に倒れ伏した。 かちゃん。輝く剣が鞘に納まる。 その時すでに、彼は胸に小さな女の子を抱きかかえていた。 駆けつけてきた銀髪の女性に、女の子を手渡す。 「ユリア、この子が無事か、診てほしい。」 「はい。……大丈夫です、怪我はありません。念のため…」 治療の杖を受ける女の子に、青年はにっこりと笑いかけた。 「…心配をかけたね。もう大丈夫だよ。」 次の瞬間、村中から歓声が沸き起こった。 解放軍がこの村にやってきて、駐在していた少数の 暗黒魔道士との戦端を開いた。 形勢不利と見るや、幼い女の子を人質に取ったロプトの魔道士。 そこに颯爽と現れたのが、解放軍を統べる男、セリスだった。 セリスは卑劣な脅しに屈することなく、宝物をおとりにして敵に隙を作り、 正面からこれを打ち破ったのである。 今、太陽のもとに胸を張るのは、青き髪、青き目をした 柔和な顔つきの青年。白と青を中心にあつらえた衣装に身を包み、 マントを風にはためかせたその姿は、 天から遣わされた神の国の一員と見まがうほどである。 その微笑みは、見る者すべてを安心させるだろう。 一方、地に倒れ伏すのは、やせこけた頬に黒づくめの衣装をした魔道士。 帝国の暗黒魔道部隊・ベルクローゼンの一員として、 かねてからこの村で暗躍してきた男であった。 彼を悪の魔道士と断じる者は多いであろう。 そこにあったのは、戦争の決着とは言い難かった。 完璧なる善の勝利、悪の敗北。 緻密な計算に基づいた伝説が、今ここに作られていた。 「セリス様、万歳!」 「光の公子様…ありがとうございます…っ!」 村人たちは涙すら流し、ただひたすらにセリスをあがめる。 その瞳に宿る色は、信仰とすら言えただろう。 セリスは今まで何度も経験したとおり、美しさと貫禄を兼ね備えた微笑みを 流麗な動作で作って見せた。 血を吐きそうな内心を、おくびにも出さずに。 「ごめんっ…!ごめんなさい…!!ぼくは、ぼくは… ああぁ…うおおおぉぉっ!」 その日の夕方。村を去り、砦に戻った後、 セリスは自室で一人、床に這い蹲り、 かすれる声で泣き叫んでいた。 悔恨にまみれ、拳を何度も地に叩きつける。 流れ落ちる涙は、しばらくは涸れそうになかった。 …ふと顔を上げると、自室の扉が開かれていて、 その前に、一人の少女が立っていた。 どうやら、泣くのに夢中で、扉をノックされていたのに 気がつかなかったらしい。 涙をぼろぼろ零すセリスの姿を見て、彼女は一瞬動きを止め、 「…申し訳ありません。…今は、セリス様お一人のほうが よろしいでしょうか。」 そう言って頭を下げ、扉を閉めようとした。 …セリスのしわがれた声がかぶさったのは、その時だった。 「…待って、ユリア。」 「ぼくは…見捨ててしまったんだ。 救うべき、たくさんの人を。」 ここにいてほしい、とユリアを引き止めたセリスは、 ユリアに椅子を勧めたのに、自分は座りもせず、 相変わらず床に腰を視線を落としつつ呟きを始めた。 「…二つの村があった。両方とも、ベルクローゼンに 占領され、荒らされていた。…ぼくは、村を救いたかった。 でも、二つの村に正面から乗り込んでも、 奴らが村を焼いて逃げるかも…。 あのベルクローゼンのやり口、これまでもずっと見てきたから。 村が戦火に巻き込まれ、多くの人が死ぬ可能性が高いと、思った。」 その言葉は、きわめて理性的。だが声は震えたままだった。 「ぼくはレヴィンと相談して、作戦をたてた。 密偵を使い、噂を流した。片方の村にいるベルクローゼンが、 村の中で秘宝を見つけ、それを手に贅沢をしているって。 その村には、まだまだ宝が隠されていそうだ…って。 敵がそれを信じてくれるよう、いろいろ工夫もしたよ。 …作戦は、当たったんだ。もう片方の村のベルクローゼンは、 二三人の留守番を残して、全員で宝があるって村に行き、 盗みと…殺しを、始めたそうだ。2つのベルクローゼン軍団で、 奪い合い、同士討ちもしたって…。 敵が混乱したところで、オイフェたちが駆けつけて、 あいつらを片付けたんだ…。 もう一つの村には、ぼくが行った。 留守番だけの敵を倒すのは、簡単だった。 その村は、解放され、ぼくはみんなに喜ばれたよ…。」 深く息を吸い込み…セリスは床をもう一度手で殴りつけた。 「ぼくの行った村は、たしかに無事だった。 でも、もう一つの村は…ベルクローゼンの略奪合戦に巻き込まれて、 家が十軒焼かれ、二十人も殺されたというじゃないか…! ぼくたちが…流言なんか使ったせいで…っ!」 はあはあと、荒い息を吐くセリス。 彼の独白が終わるのを待っていたかのように、 ユリアはゆったりとした動作で手を差し伸べ、地に這うセリスの手を握った。 そして、すぐそばにある長椅子に向かって、彼の手を優しく導く。 セリスは導かれるままに長椅子に座り、どうと背もたれに身を預けた。 彼の横に座り、ユリアは瞑目した。そのまま、しばらく停止する。 次に彼女が目を開けたとき。紫の双眸には、穏やかで、 なおかつ強い光が宿っていた。 「…セリス様…。頑張ったのですから 良いではないですか、などとは、申し上げません…。 それは、セリス様の心には、反することだと思います…。 わたしは、ただ…セリス様の思いを、受け止めて…、 わたしの考えを…申し上げたいと、思います。」 そこでユリアは言葉を切り、セリスに問いかけた。 「今のセリス様には、代案があるのですか? このようにしていれば、もっと良かった、という…。」 セリスの涙は、まだ枯れない。悲しみと迷いをたたえた その目から、またかすかに粒が溢れた。 「ぼくには、他の方法を思いつかなかった。 …地勢や進軍ルート、流言の信憑性とかを考えると、 同士討ちをさせられる場所はあの村の中だけで…だから、 村に被害が出るのはやむを得なかった。 でも今でも、みんなを救える方法が他にあったんじゃないかと、 思わずにはいられないんだ…!」 ユリアの手の平が、ゆっくりとセリスの手袋の甲に触れた。 「わたしにも…より良い案は、考え付きません。 見捨てたのが何人だから良い、などと言って、人の命を数字ではかることは 冒涜かもしれませんが…仮に、より多くの数の命を救うことを 最善だとするならば。 わたしは…これが最善だったと、思います。 …できる限り…多くの人を、救えたのだと。」 セリスは、ふうと大きく息をついた。 「なんで、ぼくが被害のない村に行ったんだろう。 ぼくだけが、人に喜んでもらえる、幸せな…甘い場所に。」 セリスの手は自分の胸元をぎゅっと掴む。 「…いや、分かっている。完璧に人を救って、 喜ばれる役目は、ぼくが一番いいんだって。 ぼくの汚さは…人に見せちゃいけないんだって。 光の公子として、救世主として振る舞うために、 おいしいところはぼくが取るべきなんだって、わかるけど…!」 中空を睨むセリスとは異なり、ユリアの視線は 常にセリスの青い目に固定されていた。 「セリス様…。ご自分の役目を理解して、 その上で苦しんでいらっしゃるのですね…。 セリス様は救世主として、とても立派に振る舞われました。 また着実に、セリス様を支持する人が増え… 戦いはまた一歩、終わりに近づいたと思います。」 ユリアの声は、あくまで平静に、その空間に染み渡る。 それに従うように、セリスの声も落ち着きを取り戻してきた。 「ぼくは…光の公子なんかじゃ…ないんだ。 …ただの人間なんだよ…なのに、なんでみんな… ぼくに、救世主になってほしいなんて…ね…」 セリスの肩が、ふっと力を抜く。ふらふらと彷徨う視点が、 ユリアのやわらかな視線とぶつかる。 次の瞬間、その場所はそっとユリアに抱きとめられていた。 「はい。…わたしは、セリス様を知っています。」 ユリアの目は伏せられていたが、セリスの潤んだ目の光を、 確かに受け止めていた。 「住民の皆さんは、セリス様に…救世主たることを、期待しています。 そして仲間の皆さんは、セリス様に救世主を演じてくれることを、 期待しているのです。それは…わたしも、同じです。 セリス様…立派だと、思います。 理想を唱えるだけでなく、自分でできる、最大限のことを、 精一杯考えて、実現しています。 それが、セリス様の理想と程遠いとしても。 いいえ、そんな現実があっても、セリス様の理想の救世主に …決してなれない救世主に、少しでも近づこうとしています。 そんなセリス様を…わたしは、知っています…。 セリス様。気を楽に持て、とは申し上げません。 セリス様は強い方ですから…理想と現実の違いに苦しんで、 それでも前向きな姿勢でいられると、信じています。 ですから、どうか、悩んで、悩みぬいてください。 そして、少しでも良い道を、探してください。 かなうならば、わたしも、ともに悩みたいと…思います。 きっと、どんな決断も、完全ではありません。 これからも…勝つために、誰かをだますこと…見捨てなければ ならないことも、多くあるでしょう。 泣きたくても…人々の前で泣くわけにはいかない、そんな時もあるでしょう。 そんな時は…わたしのもとで、泣いてください…。 わたしは、そんなセリス様も、…わたしは…わたしは…」 セリスの肩を抱きしめるユリアの手に、きゅっと力がこもる。 「わたしは、セリス様を、お慕いしています。」 静寂が訪れ、深呼吸の音だけが二回、三回とかすかに漏れる。 ユリアの手を握り返して、セリスは彼女の肩に頭を預け…。 「…ぼくが泣くのを見たのが…きみで、良かった。」 そっと、自分の涙を拭いた。 「…ありがとう、ユリア。もう…大丈夫だよ。」 数分後…。 砦の見晴台に、星に向かって黙祷を捧げる、 セリスとユリアの姿が並んでいた。 セリスがはじめて、ユリアに涙を見せた日だった。 翌日、また何事もなかったかのように 堂々と馬上で剣を掲げ、号令をかけて進軍を開始するセリス。 その顔には涙の跡など見えず、いつもの冷静で柔和な指揮官のつとめを 完璧にこなしていた。 それからセリスは、戦いの後にしばしばユリアを呼んだ。 戦いへの反省のみならず、不運への愚痴、無能な味方への悪口、 自らの読みの甘さへの怒り、後悔、戦争への憎悪…。 後ろ向きな感情のすべてを、ユリアに向かって吐き出した。 特に、トラキアに入ってから、彼の悩みは深くなった。 貧しいトラキアとの戦いでは戦争の目的を見失いかけ、 セリスを侵略者として非難する国民の態度に衝撃を受け、 戦いを止めようとしないアリオーン王子の態度に空しい思いが募った。 セリスの頬を涙が伝うことも、大声で叫んだり暴れることもなかったが、 そんな時のセリスの心が号泣を続けていることは、 ユリアだけには、よく伝わっていただろう。 ユリアは、時には静かに激励し、時には真剣に議論し、 時には一緒に落ち込み、時にはただ黙って彼を抱きしめた。 どんな時も、セリスの思いを受け止め、自分の思いを返す、 対話の姿勢を崩さなかった。 そうしてユリアの前で胸にわだかまる毒を吐きつくしたセリス。 その後の公式作戦会議では、過ぎたことへの後悔や愚痴を口にせず、 反省材料と改良点を今後の戦略方針を堂々とした態度で 述べることができた。 村人の前では、弱者を救う情に厚い正義感ある人間を演じ。 司令本部では、「効率的」に敵と味方を殺す冷徹な指揮官を演じ。 感情、好き嫌いを表に出さず、自らの役割を淡々とこなしてきた。 なぜなのだろう。 ユリアにだけは、弱音を吐いていられた。 ユリアにだけは、光の公子ではない、 ただの「セリス」を見せることができた。 戦争の意義について、レヴィンやオイフェ、他の人と 議論することは多かった。セリスが必ずしも理想的な光の公子ではなく、 作られた英雄であることを知る者も、ユリアだけではなく、 数多く存在した。 だが、理想と現実の違いに途方もない苦しみを抱き、 感情的に泣き叫ぶ…そんな、ただの人間としてのセリスを 知っているのは、ユリアだけだった。 |