しあわせの樹

第1部 あゆみの誓い 〜しあわせの種〜

1章 聖なる約束 (前編)


 バーハラ城の中庭にある花園と噴水を見て、 セリスはふっと息をつき、肩の力を抜いた。 頭の中の疲れが、すうっと抜けていく。
 セリスは立場を忘れ、無意識のうちに廊下を外れて 草地の中に足を踏み入れていた。
 さんさんと照る日の光に、生い茂る草花。 噴水の音も心地良く、思わずその場に寝転びたくなる。
 「ふう…。」
 思い切り背伸びして、新鮮な空気を腹の底まで吸い入れた。 とても、気持ち良かった。

 セリス。
 セリス=バルドス=シアルフィ。20歳。 このユグドラル大陸に戦乱を起こし、勝利した男。光の公子と呼ばれた。
 当時全ユグドラルを支配下に置いていたグランベル帝国の圧政に対し、 頻発していた住民反乱。セリスもまた、そんな反乱軍の一つを率いて 立ち上がった。最初は弱小勢力だったが、亡き英雄シグルドの息子であった セリスはそれらをまとめる旗印となり、その圧倒的な求心力をもって 各地の反乱勢力を次々と吸収していった。 そして、帝国皇帝と皇子を打倒し、戦乱を終結させたのである。
 青の長髪に、人当たりの良い柔和な顔つき。 だが彼は伝説の聖騎士バルドの直系子孫と言うに相応しい 剣技の持ち主であり、なおかつ軍の指揮、交渉にも卓越した 手腕を発揮している。
 今の彼には、次期グランベル王国国王として、 戦乱の完全終結と荒れ果てた国の復興という重責がのしかかっていた。

 その時、空から何かが舞い降りてきた。 小さい欠片が、ひらひらと。それは雪のように見えた。
 「…?」
 噴水のまん中にある竜の彫像のもとに舞い降りた 淡い色のそれが気になって、セリスはそこに近寄った。 噴水のある池の端に立つ。だが、それが何なのか、まだよく分からない。
 身を乗り出せば何とかそこまで手が届きそうな位置だ。 セリスは思い切り身体を前に押しやって手を伸ばし、 池の水を越えた向こうにあるその物に触れた。
 「よっ…とっ…あれっ…!?」
 ふと気がついたとき、セリスは困った状態になっていた。 膝から下は池の端について身体を支えているものの、 それより上の部分が完全に前のめりになってしまっている。 この状態で手を離すと、池に落ちてしまうこと必定である。 ざぶーんという音に気づいて集まってきた臣下の前で 濡れた衣装をさらす次期国王陛下の姿、というのは、 あまり絵になるものではなかった。 かといって、他にどうすれば池への転落を避けられるか。 進むに進めず、引くに引けず。 セリスには名案が浮かんでこなかった。
 どうしたものか…。四つんばいに近い滑稽な姿の彼に、 後から声がかかった。
 「セ…陛下、どうなさったのですか?」
 せいぜい数日ぶりのはずのその声に、セリスは とても懐かしいものを感じていた。

 「はい。もう大丈夫です。」
 セリスを後から抱きかかえて引き上げたあと、 彼女はほっと胸をなでおろした。セリスはあらためて彼女を見る。 銀の長髪に白と紫のドレスはほとんど乱れが無い。 その表情は平静で、彼に対する軽蔑の色も見られなかった。 …もっとも、彼女が感情を表情に表すことなど滅多に無いのだが。
 幸いなことに、と言うべきかどうか。 間抜けなセリスの第一発見者は、ユリアだった。

 ユリア。
 ユリア=ファラス=ヘイマル=グランベル。18歳。 旧グランベル帝国の皇族では唯一の生き残りである。
 幼い頃に記憶を失ったユリアは育ての親レヴィンに導かれ、 セリスの反乱軍に加入した。光魔法と杖の使い手として 貴重な戦力となり、また控え目ながら的確な戦術意見を出して セリス軍の活躍に大いに貢献した。 聖者ヘイムの直系の末裔であった彼女は、伝説の光魔法ナーガを 行使し、自らの双子の兄でもあった魔皇子ユリウスを打倒し、 戦乱に終止符を打ったのである。
 その美貌と落ち着いた物腰は、ある種の神聖さを醸し出す。 語り口は柔和であり普段は無口。彼女の頭脳が驚くほど明晰であり、 軍事・内政の両面に実力を持っている。ただし、そのことを知る者は、 セリスをはじめ少数の者に限られている。
 これから彼女には、次期王妹として、その才幹を十分に発揮してほしい。 周囲の側近は、そう期待し、彼女に告げていた。

 「変なところを見られてしまったな。でもありがとう、ユリア。」
 セリスは、頭をぽりぽりと掻いて噴水の淵に腰を下ろした。 そしてユリアの手を下から引っ張り、自分の隣に座るように促す。 ユリアは自分たちの立場を鑑みて少しためらったようだが、 結局セリスの指示に従い、スカートドレスが乱れないように手で抱えつつ 芝生の上に正座した。そして、セリスの言葉に応対した。
 「いいえ、気になさることはありません。 ですが、なぜあのようなことになっていたのでしょうか…?」
 ユリアの声には抑揚が無かったが、それでも訊ねたということは この件に多少は興味があるということだろう。 本当は「どうでもいいこと」として流しても良かったはずだが、 セリスは苦笑を浮かべると、詳しい話を始めた。
 「うん。実はその噴水の真ん中に何か落ちてきたから、 それが何なのかなって気になって。それで…」
 事の次第を説明するセリス。きちんとした説明が進んでいくたびに、 セリスは自分の間抜けさを実感させられてしまった。 笑いを、抑えられなくなっていた。
 「ははっ、おかしいよね。池に落ちそうになって困ってるんだよ。 子供みたい。王様になるってのにさ…はははっ。」
 一人で笑い転げるセリスを見て、ユリアの頬も少し緩む。 セリスをちらっと見て、軽めの口調で応えた。
 「…その方が、良いのではないでしょうか。」
 ユリアの言葉を聞いて、セリスはぷいっと横を向き、 頬をふくらませて拗ねた。
 「あっ、そんなことを言うの?ぼくには立派な王様なんて 向いていないって?…そりゃあ、ユリアはこんな変なことしないって 分かってるけどさ。でも、ぼくだって…」
 ユリアにからかわれたのかと思って、冗談っぽく怒るセリス。 彼の文句が一通り終わると、ユリアは首をかしげ、 静かに答えた。
 「いいえ。ただ、………、陛下がお笑いになったお顔を、 とても久しぶりに見た気がしたのです。」

 それから少しの間。 セリスは草の上に腰を下ろして、 思い切り足を伸ばしてくつろいでいた。 目をぎゅっとつぶって深呼吸すると、肌からも新鮮な空気が 吸い込まれて、身体を清めていってくれるようだ。
 ユリアはちょこんと正座したまま、そんなセリスを 静かに見守っていた。
 しばらくは二人とも無言のまま、この空間を堪能する。 流れ落ちる噴水の音だけが場を司る静寂を、 ためらいがちに打ち破ったのはセリスの声だった。
 「…懐かしいな。」
 ふわりと空に浮かんだその言葉は、独白のようでもあったが、 ユリアはその言葉を待っていたかのように、すっと 自然に反応を返していた。
 「最近は城から外出なさることがありませんでしたからね…」

 「うん。みんな…元気かな。」
 セリスは、ほっとため息をつくようにして言葉を吐き出した。
 オイフェやシャナン、ラナやスカサハをはじめとした仲間たちとの戦いの日々。 不利な戦力での戦いを余儀なくされ、歯を食いしばって 剣を振り続けたこともある。仲間たちと城外の野原に行き、 色々な遊びを教えたり教わったりして交流を深めたこともあった。
 だが、戦争は終結した。シャナンはイザークに、 リーフはトラキアに…その他、みんなが別の国に分かれていった。 今の自分は、もう滅多に彼らと会うことは無い。 ユリアですら、顔を合わせることは頻繁ではないのだ。
 今のセリスが主に相手にしているのは、パルマークやフェリペを はじめとした、内政担当の文官たち。いずれも、セリスより 大幅に年上である。あの時代とは、全く変わってしまっていた。
 まだ、数週間しか経っていないはずなのに。
 「もう…何年も前のことのような気がする。」
 今度ははっきりと、セリスはため息をついた。 顔を下に向け、手元の草をきゅっと握った。

 「さて…仕事があるんだ、そろそろ行かな…」
 硬い声を発して立ち上がりかけたセリスの裾が、 きゅっと何かに引っ張られた。
 驚きつつ振り返ってみると、そこにあったのは…しなやかな手だった。 白く細いけれど、しっかりとセリスの服を握っている、ユリアの手。 一瞬後に、ユリアはその手をぎこちなく離した。
 「あ…申し訳ありません。どうぞ…」
 そう言って、セリスを引き起こすために立ち上がりかけたユリアを、 今度はセリスが引き止める。
 「ちょっと待って。今、何か言おうとしたんじゃないの? 何…かな?」
 紫の目をぱちくりさせて戸惑うユリア。首をかしげていると、 セリスの追い討ちがかかった。
 「ねえ、話してよ。」
 その声は、さっきセリスが立ち上がりかけた時とは明らかに違うものだった。 顔も、にこにこと笑っている。ユリアにとっては見慣れたはずのセリスの笑顔。 最近は、滅多に見られなくなった笑顔。
 「…はい。…戦っていた頃のお話を、もう少し…と、思いました。」
 「…うん!」
 ユリアの答を聞いて、セリスはもう一度にっこり笑みを作り直した。



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