こころの壁 暫定版(後編)


 きらきらと瞬く星のひとつひとつが、地上を見つめる。 無限の空が藍色に広がる中…柱を瀬に腰を下ろした二人は、 お互いの心を見つめあった。
 ぽつり、ぽつり。
 リーンの言葉が、闇に染み込む。

 ダーナ城のこと。
 アレスは、養父ジャバローとの義理を果たすため…そして、セリスを倒すために 出撃した。その間に、リーンはダーナの領主ブラムセルにとらわれた…。
 アレスがブラムセルを打ち倒し、再びリーンと出会った時。
 彼女の身体は傷だらけだった。まがまがしい雰囲気、すえた匂いの拷問室… そこで何が行われたのか。 何となく想像がついても、アレスにはその全ては分からなかった。
 …いや、彼は目をそむけたかったのだ。
 彼はリーンが好きだから。彼女がつらい目にあうことは、知りたくない。 それが自分のせいなら、なおさらだ。
 そんな彼に向け、リーンは容赦無く自分の経験を語った。 あの場所で、誰が、どのようにしてリーンを苦しめたのか。 ひとつひとつ、克明に。もう戻らない、凍りついた過去…。それが、 心の中で融解し、再生されていく。
 リーンは自分の過去を見つめ、洗いざらい…アレスに浴びせ掛けた。

 じっと座ったままのアレス。胃の底が、ちりちりと痛む。 だが、瞳にはひそやかに炎がともりつつあった。
 そんな彼を見ているうちに、自分の心の声が、踊りたい、とリーンに告げた。 アレスに、見て欲しい…と。
 リーンは立ち上がり、アレスの目の前で両手を上にぴんと上げて静止した。

 「アレス…見ていてね。あたしの最後の踊りだから…。」

 静かな夜。華やかな楽団もいなければ、太鼓や笛の音も聞こえない。 舞台も観客席も無い、何の変哲もない石の床。
 振り上げた足を滑らかに下ろし、とんっと音をたてたのが、始まりの合図だった。
 両手を握ってはぱっと広げ、ぐるぐる回す。すっと跳躍し、 その頂点で両足を広げてから着地する。両腕とともに背中をぐっと反らして、 足を後ろに振り上げて…また体勢を戻し、ふわりと浮き上がる。 重力の束縛をものともしない躍動。まるで鳥のように軽やかで楽しげだ。

 「ああ…あの城の裏の場所だ…」
 アレスの陶酔したつぶやきが、リーンの胸に届く。 リーンの胸に、熱いものがこみ上げてきた。踊る、喜び…。
 二人は今、心の中に同じ情景を思い描いていた。 何の変哲もない石の床…、だがそれは、二人にとって何よりも大切な 思い出のステージだった。


 リーンが物心ついたときから、彼女は孤児として生きてきた。それが当然だった。
 子供から少女になった頃。財政の苦しい孤児院にこれ以上負担をかけられないと…、 自分の力で生きていきたいと思って、リーンは踊り子を始めた。
 身ひとつで始めた踊り…最初は誰も見てくれず、日銭もろくに稼げなかった。 雨水を飲み、食堂のごみをあさって生き延びてきた。周囲の踊り子達の技を盗み、 道端で踊りつづけた。そしてある時から、金髪の若者が毎日のように 彼女の踊りを身に来るようになったのに気づいた。踊りを見ると、 必ず銀貨を1枚放り投げて城へと去っていくのだ。
 「よく見に来てくれるのね。ありがと。」
 「別に…気ばらしに来ているだけだ。」
 ある日、踊り終えた彼女が声をかけると、その男はぷいと横を向いて ぶっきらぼうに答えた。彼女はそれに微笑みを返し、
 「ふーん、あたしの踊りが、気ばらしになるって言ってくれてるのね。 ほんと、ありがと。…あたしは、リーン。」
 「……アレスだ。」
 リーンの差し出した手を、アレスはがっしりと握った。 …冷たい手だな、と彼女は感じた。
 それが、二人の出会いだった。

 その日を境に、リーンの世界は少しずつ変わっていった。
 それからも毎日踊りを見に来たアレスと、よく話をするようになって。 やがてリーンは、暇を見つけて城の裏に散歩に行くようになった。 そこにアレスが待っていて、リーンとものを食べたり世間話をしたりするのだ。 アレスが剣さばきを見せることもある。力強くて華麗な動きは、リーンを魅了した。
 シグルドの息子を殺して父の仇を取る夢をアレスが語ったとき、リーンは反対した。 それは憎しみと悲しみを増やすだけだと、肌で知っていたから。 だが、夢を持ち、夢に向かって行動する…そんな力強さに、リーンはひきつけられた。 彼女はまだ、一日一日を生きるのに精一杯だったから。
 リーンはいつも最後に、みすぼらしい城の裏口で、 自分をアレスに知ってもらういちばん良いやりかたを実行してたのだ。それは…、
 心の赴くままの、奔放な踊りだった。


 リーンは…思い出の宝石とともに、自分の本当の望みを思い出していた。
 あのころ彼女の心を突き動かしていたのは、たったひとつの思いだった。
 そんなリーンの思いは、踊りという形を通じてアレスの全身に流れこんできた。 手に巻いた長いピンクのリボンが華麗に泳ぎ、スカートの短い裾は風を受けてはらむ。 リーンが飛翔するたびに、彼女の悲しみと、それを乗り越えてきた強さが ひしひしと伝わってきた。懸命に自分の全てをさらけ出そうとしたダーナでの リーン…そんな彼女にひかれていた自分を、アレスもまた思い出していた。
 あたし…やっぱり、踊りたいよ。アレスと一緒にいたい…。
 忘れかけていた、あの頃の新鮮な想いを散らしたこの舞台で。
 踊り子は、あれ以来はじめて、自由に舞った。

 どんなに辛くても、あきらめない強さ。
 どんなに汚れても、譲らない誇り。
 それが、踊り子のこころ。

 とん…。
 石床に着地した音が終演を告げる。次の瞬間、リーンの瞳に熱いものが見え、 ふらっと前に倒れ掛かる。だがそれよりも早く、彼女の身体はアレスの 厚い胸板に抱きとめられていた。
 きつく、かたく抱きしめられたリーンの肩。 驚く間もなく、アレスの想いがリーンの全身に響き渡った。

 リーン…俺と一緒になってくれっ…!

 抱きとめられたまま、リーンは全身をびくりと震わせる。 数秒後、それが自分の耳元でのアレスの叫びだったことを理解した。

 「いいの?…あたし、汚れてるよ?」
 赤ん坊がはじめて立って歩く時のように、先への期待と不安をないまぜにしたリーンの声は。 アレスの力強い声に、しっかり抱きとめられた。
 「そんなのは、俺だって同じだ。それにな…、そんな風に しっかり考えているところが…リーンはきれいだって思う。」
 二人は気づいていなかった。これだけ触れ合ってもリーンが拒絶を示さないのは、 あの日以来はじめてであることに。
 「アグストリアに…来てくれるか。もっと俺の前で踊ってくれ…」
 リーンは背を伸ばしてアレスの耳に向かって唇を動かし、両腕がアレスの背中に回された。 やがて二人はじっとみつめあい、顔がゆっくりと近づく。
 満天の星空のもと、はじめて、二人の唇が重なり合った。



 翌朝。窓から光が射し込み、眠るリーンの緑の髪をさわやかに照らす。 目を細めてそれを見ているアレスは、彼女の目がゆっくりと開いていくのを見た。
 「…おはよ。」
 少し気だるい、でも底知れず優しい恋人の声に、アレスの頬が思わずゆるむ。
 「どうしたの?」
 問いかけるリーンに、アレスは鼻の頭をぽりぽりとかいて、ゆっくりと答えた。
 「俺、こういう…『家族』みたいなの、ずっと感じたかったんだな…って、思ってな。」
 「……あたしも。」
 そうして、また見つめあう。二人とも本当の家族にずっと出会えなかったことは、 お互いよく理解していた。

 「俺のせいで…ダーナでお前を酷い目にあわせちまったからな。 俺はあんなやつと同じになりたくないから…それで…。」
 「うん。あたしも、ずっと引きずってた…。でも、アレスは違うよ。 優しいから…。アレスだから、あたし、乗り越えられたんだよ。」
 「……。」
 上目遣いに見るリーンが愛しくなって、アレスはまた彼女をぎゅっと抱きしめた。
 「踊りは、人のこころを引き出すことだって。お母さんの口癖だったって…。 やっと、意味がわかった気がする。」


 「ありがと。セリス様は世界だけじゃなくて、あたしたちも救ってくれたわ。 あたしでもアレスと一緒になれるって、教えてくれた。」
 「いや、私は何もしていないよ。リーンとアレスが、自分で選んだことなんだ。」
 数日後。バーハラ城門の横にある馬屋の近く。馬のそばに立ったアレスの横で、 リーンはセリスに笑いかけた。昨日のお礼をしたくて、と言って呼び出していたのだ。
 「じゃあ、お礼よ…踊ってあげる。」
 そう言って始めたのは、いつもの戦いの踊り。だけど、セリスの目には はじめて見る踊りに映った。動きの速さ、大胆さ、躍動感、どれも群を抜いていた。 だがそれよりも、もっと大切なのは…。
 「リーンが笑顔で踊るの、はじめて見た気がするよ。」
 セリスの感想に、リーンはとびきりの笑顔で応えた。
 「うんっ!あたし、アグストリアを大陸一の踊りの国にしてやるんだから!」
 ガッツポーズを取るリーンの前に立ちふさがって、アレスが低い声で横槍を入れた。
 「ところで、セリス。俺のリーンの踊りを見たんだ。見物料を払ってもらいたいな。」
 「えっ…?リーンは『お礼に』って言ってくれたけど…」
 「うるさい!ただ見は俺が許さん。」
 そう言ってずかずかと迫り、セリスの首根っこを捕まえる。 そのままぐいっと引っ張り、セリスの目の前にぐいっと迫って険しい目つきになった。 そして…。
 「次は、お前たちの番だ。分かってるな。」
 絶句したセリスに、リーンが極上の笑みで追い討ちをかけた。
 「誰と一緒にいたいのかがいちばん大切。そう教えてくれたのは、セリス様ですよ?」


 こうして、新生アグストリアの初代国王と王妃が生まれた。 貴族としての暮らしの経験が無い彼らだが、英雄の子孫としての 二人の生まれ持った輝きと明るさ、親しみやすさは国民の尊敬を自然に集め、 庶民の側に立った政策で国を復興させていった。
 ウエディングドレス姿で踊りまわり、最後にアレスにキスをしたリーン。
 それはユグドラルで最も楽しい結婚式として後々まで語り草になったという。


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