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こころの壁 暫定版(前編)
灰色の雲が垂れこめるグランベルの空の下。刺激的な薄着の衣装を身にまとって、 しばった短い緑の髪が揺れる。 明るい笑顔を振りまき、今日も戦友たちを励ます…戦場の花、ダンサー。 その踊りは、生まれたときからの厳しい環境を耐えてきた苦労の上にあるもので あることを、戦友の多くは知っている。だが、笑顔のかさぶたに隠された、 最も深いところにある彼女の心の傷を見たものは…まだ、誰もいない。 彼女の名は、リーンといった。 踊りを終えてほっとしたリーン。その時彼女の横の木陰から、 がさがさと物音が聞こえた。 はっとして振り返ったリーンが見たものは、自らに飛びかかる敵の傭兵の姿だった。 ひるんで、きゃっと悲鳴を上げるリーン。しかし、敵の剣が彼女に届くより先に、 目の前に黒い影が現れた。 馬上にあるその雄雄しい姿は、美しい金髪と全身を包む黒い鎧のコントラスト。 鋭い視線がもたらす威圧は、味方に勇気を、敵には絶望をもたらす。 …そしてそれは、彼女にとって何よりも心強い姿なのだ。 「リーンに…触るなっ!」 怒声とともに振り抜いた彼の魔剣は、哀れな傭兵の身体を胴から真っ二つにした。 「アレス…!ありがと。また助けてもらったね。」 魔剣を鞘に収めた黒騎士に向かって両手を広げ、リーンは 満面に笑みをあふれさせて駆け寄った。が…、 「…あまり無理はするな。」 リーンが自分のもとに着く前にアレスは振り返り、そう一言だけ告げた。 そしてまた首を回し、馬上で周囲を油断無く見回す。敵の気配がもはや無いのを 確認しても、アレスはいつまでも警戒を続けていた。 …まるで、リーンと目をあわせるのを避けているかのように。 そんなアレスに対してリーンは上目遣いになり、彼に向かって広げていた手を 引っ込め、立ち止まる。そして、無意味にあたりをきょろきょろ見まわした後、 意を決したようにアレスに声をかけた。 「ね、ねぇ…アレス…」 「どうした?」 アレスはようやく振り向き、彼女に鋭い目線を送る。 その金髪は傾いた日の光を反射して燦然と照り輝き、彼の生まれ持つ気品を 鮮やかに照らし出していた。彼の太陽のおかげで自分の持つ影がくっきり出てしまった ような気がして、彼女は何も言えなくなってしまう。 「う、ううん、何でもない。アレスも、気をつけてね。」 リーンは目を見開いて首を激しく振り、また笑った。…懸命に、笑おうとした。 彼女を見つめるアレスの目がすぅっと細くなり、視線が斜め下に落ちる。 そして…無言のまま馬首を返し、また戦場へ走り去って行った。 この頃、ロプト帝国勢力との戦争も大詰めを迎えていた。 シャナン、リーフ、セティ、アーサー…、今日もまたリーンの踊りに勇気付けられ、 彼らは勇みたって戦場へと向かう。そして、本来の彼らにも増した鬼神の勢いで 並み居る敵をなぎ倒していく。戦いが一段落すると、一転して 「ははは、そんな恐い顔をするな。美しい顔がだいなしだぞ」 「ティニーはかわいいな、私の宝物だ…」 そろって、戦いの日々に見つけた恋人のもとに帰る。そしてお互いを抱きしめて 愛を語らい、その場の温度を一気に上げるのである。彼らの多くは…、 「はい、私はどこまでもリーフ様について行きます。たとえ地の果てまでも…」 「フィー、ぼくたち、一緒になろうよ。この戦いが終わったら、 シレジアに帰って二人で暮らそう」 戦いの後のことを考え、将来を誓い合っていた。 そんな彼らを遠目に、握りしめた自分の手にリーンは視線を落とした。 自分の踊りになぜこんな力があるのかは、リーン本人にも分からない。 分かるのは、この踊りの力のおかげで、彼女が食べていけるということだ。 「リーンの戦力は、伝説の戦士4人分だよ」 解放軍盟主・セリスの言葉が脳裏に甦る。これが、彼女のプライドの よりどころのひとつだった。彼女にとって踊りは、商売道具なのだ。 仲間の力になれるから…だから、あたしは踊るの。 でも、戦争が終わったら、どうしよう?もう踊る必要はないんだよね。 …ダーナに戻って、復興の手伝いをしようかな…。 遠くで愛しあう恋人達に再び視線を戻し、リーンは心の中で呟いた。 リーンは、幸せだった。今、彼女は恵まれていた。 たとえ、アレスが自分と愛を語らわなくても。まして、結婚なんて思いもしなかった。 …そう、思おうとしていた。 それから数週間後。 二人は、昼なお暗い空遠くを多くの仲間とともに不安な面持ちで眺めていた。 バーハラの野。その空に映るのは、黒い竜が悶え苦しむ姿。 やがて、空全体がぐにゃりと捻じ曲がり、黒い残像がぱっと散って消えた。 そして…バーハラ城からたった一人で歩み出た紫髪の少女を、 彼らの盟主が優しく抱きとめる。 それは、戦いの終わりを意味していた。 限りない敵の血を啜ってきた魔剣も、ついにその役割を終える。 聖戦士たちを戦場に駆りたてる踊りも、もはや必要ないのだ。 「終わったな…。」 「うん、これで…、」 遠い目で夕焼け空を眺めるアレスの感慨深い呟きに、リーンも短い言葉を口に出す。 その続きを言おうとした彼女は、だがそれを口にできなかった。 気づいてしまったのだ。二人で肩を並べるのは、これが最後かもしれないと。 「では、アレスはアグストリアに行ってくれるんだね。 あそこはまだ敵勢力がいるけど、アレスが行けばまとまるよ。」 「ああ。俺と…デルムッドも行くんだろう?」 「ええ。同行して、王子を支えるつもりです。」 そのあと、しばらくの沈黙が落ちる。セリスは不思議そうな表情で じっとアレスを見つめた。周囲の者も、口には出さないが同じ気持ちだった。 終戦から数日後。バーハラの会議室で、セリスは皆とこれからの方針について 協議していた。ほとんどの者はすでに行き先を決めていて、それを皆からも 認知されていたこともあり、会議は滞り無く進んでいた。 例えば、シャナンは新たな王としてイザークに帰る。 その傍らには、生まれた時から彼のそばにいて、これからは 王妃として彼のそばにいることを約束した女性の幸せな姿があった。 彼女の兄もその横に佇んでいる。 彼らがイザークに行くことは、誰の反対も無く了承された。 そして、アレスの番になったのだが…。 彼が何も言い出さないのを見て、セリスはしばらく黙り込んだ。 ぐっと唇を噛みしめつつこちらを見るアレスと、その斜め後ろで何度もうなずき 必死に自分を納得させているようなリーンを見比べて、セリスは口を開いた。 「…じゃあ、次はリーン。きみは…どうするの?」 びくっと、リーンの身体が震え、その顔が伏せられた。そして数秒の間の後に 顔を上げたリーンは、ぱあっと明るく微笑んで告げた。 「踊り子は…やめます。ダーナに戻って暮らそうと思っています。 …大丈夫、私はこれまでもひとりだった。これからもひとりで生きていけます。」 「そうか…。」 そう言ってセリスはアレスを見たが、その視線がアレスと合うことはなかった。 その夜。はるか遠くの山の上に広がる満天の星空へと、リーンは自分の思いを馳せていた。 真新しい長衣姿で城の物見台の出窓の前に立ち、 手には着慣れた踊り子の衣装を持っている。 「これで…、これでよかったのよね…。」 口の端からぽつりとこぼれる言葉。彼女はそのまま、手をすっと前に出した。 おりから吹く強風に、服と呼ぶにはあまりに小さく薄い衣装がぱたぱたと舞う。 アレスは前ノディオン国王・エルトシャンの長男であり、正当な王位後継者である。 残る戦乱を平定したら、アグストリアを治めることになるだろう。 それに比べて、自分はどうだろうか。捨て子としてダーナの孤児院に預けられた、 ただの小娘に過ぎない。いや、ただの小娘どころか……。 いろんな思いを吸ってきたこの衣装。でも、もう要らない。 このまま手を離せば、衣装は風に舞いあがり、手の届かない彼方へと 飛ばされてゆくだろう。…そしてリーンは一平民に戻り、 また地道な暮らしが始まるのだ。 「さよなら、アレス…」 「…待って。」 衣装を放そうとしていたリーンの手が、背後からすっとつかまれた。 そこにいたのは、青い髪の公子…いや、今やグランベルの頂点に立つ人物だった。 「セリス様…。」 「きみのこと、少し心配になって…。踊り子…やめるの?」 「…いけません。セリス様は、グランベルの王になる方。私は、平民に…」 …そして、アレスもアグストリアの王になるから… 「そんなこと関係無いよ。私とリーンは、仲間なのだから。」 にっこり笑ったセリス。リーンは衣装を持ったまま、手をすっと下げた。 「リーンはお母さんに会うために、踊り子になったんだよね。」 「はい…。」 少し距離をとって、やさしく話しかけるセリス。その前で、リーンは自分を 神の遣いの前に引き出された罪人のように感じていた。 「でもそのあと、ダーナを離れたよね。お母さんに会いにくくなるかもしれないのに。 それは…どうしてだったの?」 「ダーナの傭兵たち、あたしの踊りをいやらしい目で見るから、大嫌いだった。 逃げ出したかったの…。」 「…踊りが、嫌いだったの…?」 「わかんない。でも、あんな思いをするのはいや。だからもう、 踊り子をやめようかなって思った…」 「…きみは、私たちにはじめて会ったときから、アレス王子と一緒だった。 彼についていこうと思ったんじゃない?」 その言葉に、リーンの眉がぴくっと動いた。しばらくの沈黙のあと、 打って変わって重い言葉を彼女はこぼす。 「…セリス様。あたしやアレスのこと…、口をさしはさむのは やめてください…。」 「ダメだよ。これは、国家的重要事項なんだから。」 唇をきりりと引き締めてセリスはリーンを睨む。彼女の目が丸くなった。 「アグストリアを平定し、王として国を治めるのは大きな負担だ。 アレスの心が不安定では、隣国を治める私としても安心できない。 きみが彼の側で踊りまくって、彼をばりばり働かせる必要がある。 アグストリア王妃として彼を支えることを、きみに命じる。」 リーンは衝撃を受けた。手で押さえた頬が、みるみるうちに赤くなる。 ぱくぱくする口から、やっとの思いで意味ある言葉を絞り出す。 「セ、セリス様、あたしなんか…」 「…というのは冗談だけど。」 その上にセリスの台詞が重なり、リーンの強ばった顔は一転してゆるむ。 それに反して彼女の瞳の影が濃くなったのを、セリスは見逃さなかった。 「もう、セリス様も人が悪いですね…。」 「ふふっ。昔の王家じゃないし、無理やり結婚なんてさせないよ。」 ぴっと指を立ててにやっと笑うセリス。でも、その瞳はまっすぐリーンを見つめていた。 「でも、さっき言った私の気持ちは本当だよ。 アレスもリーンも幸せにならないと、私の気持ちがおさまらない。 リーンは本当は誰と一緒にいたいのか。その気持ちが、大切なんだと思うから…。」 …セリス様は、あたしがアレスとの身分差を気にしてると思っているのね。 それもあるけど、本当は…。 リーンは自分に呟く。下を向く彼女にセリスは背を向けて、 去り際に明るく声をかけた。 「おせっかいでごめん。でも、もうひとつ言わせて。 リーン…きみにとって、いちばん楽しかった踊りは、いつ? …その時を思い出して、もう一度だけ踊ってみたらどうかな。 やめるのは、それからでも遅くないと思うよ。」 セリスが去ったあとの、夜の静寂。さっきまでと同じ光景にもかかわらず、 リーンにはそれがひどくうそ寒いものに感じられた。 星空を眺めるリーンは、いつしかかつての情景を脳裏に描いていた。 あたしが王妃なんて、なれっこないじゃない。だって…踊り子だったのよ。 男に肌をさらして媚を売る、いやらしい商売。 でも、つらい時にいつも、そばにいたのは…。 しばし過去に思いを飛ばしたリーン。やがて我に帰ると、 彼女はゆっくりと自室に戻り、長衣の襟元に手をかける。 そしてひとつうなずくと、おもむろにそれを脱ぎ始めた。 コンコン。 すでに床に入りながらも眠れずに何度も寝返りを繰り返していたアレスは 扉を叩く音に反応し、あたかもそれを待っていたかのように勢い良く身体を起こした。 「リーン…。」 扉を開けると、そこには見慣れた踊り子の姿があった。 だが、ここ数日平服のリーンを見たせいもあり、その姿にひどく懐かしさを覚える。 彼女はアレスを見上げるとにっこり笑った。 「時間あったら…城の裏に来ない?」 「アレス…。とうとう、王様になるんだね。おめでと…。」 虫の声が聞こえるバーハラ城の裏のベランダ。 リーンはアレスの隣り合わせで床に腰を下ろし、しみじみと語った。 「アレス…ありがと。あたしなんかと一緒にいてくれて。楽しかったよ。」 リーンの声自体は明るい。だがその声が乾いているのは、アレスには隠せなかった。 過去形で語った言葉が、どうしようもなくやるせない。 「だから、最後に一度だけ、踊ろうと思って…」 「リーン…。」 アレスの顔が凍った。手ががくがくと震える。 リーンを睨むその瞳は、何かに怯えていた。 「なんで…なんで、そんなことを言うんだよ!」 「……。」 リーンは思わず目をそらした。アレスが自分に何かを求めてくる気がしたから。 「リーン…。俺、おまえと…」 「だめよ…アレス。」 リーンに手を触れず、ただ正面から見据えたアレスの言葉。それを遮った リーンの鈴のような声は一見そっけなかったが、その底は熱く揺れていた。 「…!なんで、なんでなんだよ、リーン…!『どこにも行かないで』って 言ったのはお前だったのに…お、俺…!」 急激に沸きあがった気持ちに任せ、アレスは思わず両手でリーンの肩を掴む。 「…きゃあっ!」 ……そして、沈黙が落ちた。 とっさに身を引いたリーン。アレスはさっと顔色をなくして手を引くと、 がっくりと肩を落とした。そのまま、床を見る二人。気まずい沈黙が流れた。 「…すまん…」 アレスはぷいと顔を横に向け、唇を噛む。 リーンは両手で自分の肩を抱きすくめ、外敵から身体を守るような姿勢を取っていた。 …自分で意識的にそうしていたわけではない。気づいたら、そうなっていたのだ。 リーンは…震えた。そんな自分に。 こんな…こんなのって…! あたし、アレスを好きなのに…。なに、このあたしの手…? これじゃ、あたし…、アレスから逃げても、誰のところにもお嫁に行けないよ…。 震えるリーンに、さらに重い声が追い討ちをかける。 「リーン…、やっぱり、俺じゃだめなんだな…。」 失望を秘めたその声は、リーンの精神に激しい電撃を浴びせた。 そのまま背を向けたアレス。その後姿…このままでは、もう二度と会えない。 このままじゃ…だめ…っ! 気がついたとき。今度は、リーンがアレスを背後から抱きしめていた。 「…いいんだぞ、無理しなくても。」 胸を高鳴らせつつも冷静に応対したアレス。だが、それに続くリーンの涙声を 耳にして、かれの平静は完全に均衡を失った。 「ちがう、ちがうの…。」 リーンは、自分のおなかの底がぐつぐつ煮えたぎるような感覚を知った。 怒りではない。悲しみでもない。ただひとつの、限りない渇望。 さっき、アレスに触れられた肩に、熱く踊るような感覚が残っている。 「アレス…あたしのこと、聞いてくれる…?」 |