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ほたるの一里塚
「ユリア、ほたるを見に行こう」 談話室で突然もらしたセリスの一言に、ユリアはぱちくりと目を瞬いた。 聖戦終結から数ヶ月。王座について以来、寝る間を惜しんで働いていたセリスが 久々に発した、明るい声である。 ユリアのついでくれた紅茶に口をつけ、 「あのときの約束、覚えてるよね?」 笑った視線を机越しにまっすぐユリアに投げかける。 「…はい。」 ユリアの頬も、その頃を思い出したかのようにほころんだのであった。 それから数日後。燃えるような大きな夕日に向かって、 セリスは馬上でこれまでにないさわやかな掛け声を出した。 「じゃあ、行くよ、ブルーウインド!」 その声とともに、セリスの愛馬がゆっくりと歩き出す。 いつもの駆け足ではなく、並み足になっている理由は、セリスの背後にあった。 「大丈夫だね。少ししたら、もう少しスピードを速くするよ。」 セリスの背後から両手を回して彼につかまり、身体を彼の背中に預けて 遠く赤く染まる夕暮れ空を見るユリア。その信頼の感触が嬉しくて、 セリスの胸もきゅっと鳴るようだ。振り返ると、 彼女の髪もまた、きらきらとまばゆいオレンジに染まっていた。 「ええ。…嬉しいです、あの時のことを覚えていてくださって…」 ユリアのさわやかな声は風に乗り、二人の思いを過去へと飛ばした―――。 「セリス様。この近くで、ほたるを見られるという話を聞いたのですが…」 テントの中で座り、剣の手入れをしていたセリスは、 ふぅと息をついてその声に反応した。目を上げるとそこにいたのは、 いつものローブに身を纏ったユリア。その姿を見ただけで、 あたりを覆っていた真夏の蒸し暑さがさっと散っていくようだ。 「へえ。じゃあ、みんなで見に行こうかな?」 にっこり笑いかけるセリス。だが意外にもユリアは首を横に振った。 「…できれば、セリス様と…二人で…」 夜の陣をこっそり抜け出し、二人は歩き出す。セリスが左手に明かりを持ち、 先を歩く。その右手は後ろに続くユリアがしっかりと握っていた。 戦争中のため武器は持ち歩いているが、周辺は平原で身を隠す場所も少なく、 偵察の報告でも敵はコノートの城に篭城の構えを見せているとのことで、 実際に敵に遭う心配はほとんどなかった。 お互いの手の感触に何となく面映さを感じつつ、数十分ほど歩いて、 川辺に辿り着く。だが、そこに二人の期待した光景はなかった。 「いないね…」 満月と星々がまたたく大きな空に、セリスの声がぽつりとこぼれた。 空から目を下ろすと、そこは一転、そこには闇に包まれた水草に、 虫の音が鳴り渡るばかり…。 「…ほたるがいたと聞いたのは、十日ほど前のことですが…」 「ほたるの命は短いから…もういなくなってしまったのかもしれないね。」 その声に、ユリアの目が寂しげに伏せられた。 「…ごめんなさい、セリス様。」 「いいよ、また来年見に来れば。」 戦争のさなか、その日が来るのか定かではないのだが。 それでもセリスはあっさりとその言葉を口にした。 それに対し、ユリアは黙して語らない。 しばらくの沈黙のあと、ユリアはゆっくりと口を開き…、 そのまま、口を閉じてゆっくりと手を下ろした。 「ユリア、どうしたの?何か心配なことがあるの?」 他の人なら気づかないであろう微妙な変化。だがセリスは、 ユリアの表情に不自然さを感じ取り、あえて話しかけた。 やや強引にも見えるが、こういう言い方をしてもユリアは必要なこと以外 話さない、とわかった上での言葉である。 ユリアは目を瞑ると、いつものようにゆっくりと、虚空を見つめつつ話し始めた。 「昨日の戦いのあと、イシュタル王女を連れ去ったあのひとは…」 セリスの脳裏に、鮮烈な印象を残す赤毛の少年の像が浮かび上がった。 「彼は、ユリウス皇子らしい。…ユリアは、彼を見たことがあるの?」 「ユリウス皇子…」 その響きを反芻するように、ユリアはゆっくりとその名を告げる。 「いいえ、はっきりとした見覚えはありません。 でも、あのひとを見たとき、わたしは不思議な気持ちにおそわれたのです。 わたしと、とても近くにいるような…それでいて、いちばん遠くにいるような…」 そこで言葉を切ったユリアは、自分の腕をかき抱き、少し寒そうに首をすくめた。 セリスはそれを見て、不思議な想像をしてしまった。 この暗黒の虚空に突如として魔法陣が現れ、あの少年…ユリウス皇子が転移してくる。 その腕にユリアを抱き入れて、そのまま彼女を連れ去ったら…。 ユリアが、それを受け入れたら…? 根拠も無い想像であるが、なぜかセリスは背筋が寒くなるのを感じた。 「…わたし、ときどき恐くなるのです。記憶が無いことが…。」 ユリアのか細い声が、夜闇に沈む。 「レヴィン様に助けられ、セリス様とお会いして以来、 みなさんのお役に立ちたくて、ここで戦っているのですが…。 わたしの記憶が戻ったとき、このままでは…いられなくなるかもしれないのです…」 セリスに背を向け、遠い目のユリア。 ユリアは、記憶の無いまま戦っている。それがどれほど怖いことか、 その時のセリスにはわからなかった。 ただ、ユリアがこのまま自分とともに戦っていると、取り返しのつかないことに なるのではないか。ユリアがいなくなるのではないか。 そんな、根拠の無い直感にセリスは打ち震えた。 何とかユリアの真意をつかもうとし、セリスの脳裏をさまざまな言葉が駆け巡る。 だが、最後に残ったのは、至って単純な真実だった。 「…そうだね。何がきみにとって正しいのかは分からない。 それを決めるのは、きみしかいない。でも今は…ここにいてほしい。 ぼくたちといたいと、ぼくたちの戦いが正しいと、そう思うのだったらね。」 そのまま…しばらくの静寂が落ちる。 やがてユリアはくるりとローブをなびかせて振りかえり、セリスをまっすぐ見つめた。 「セリス様…ありがとう。これからも、わたしはここにいて、ともに戦います。」 ぴんと張った優しさをたたえて、ユリアは決意を新たに示した。 「ユリア…。来年また、ほたるを見に行きたいな、一緒に。」 星空を見上げて、セリスがつぶやく。 「…約束します。そのときまで、わたしたちが一緒にいることを祈りましょう…」 差し出されたセリスの手を、夜なお白いユリアの手が優しく包み込む。 そのとき、ユリアの背後からふっと淡い光が現れた。ふわふわと彼女の周りを 飛びまわり、そのまま空へと去っていく… 「ほたる…?」 それは、一歩を踏み出した彼女を祝福しているようにも見えた…。 「着いたよ、ユリア」 一年前に飛んでいたユリアの意識は、その声で現実に引き戻された。 すでに日は沈み、あたりは暗くなっている。どうやら、彼の背中に身体だけでなく 心も預けて、夢想していた…というより、半分眠っていたようである。 このまま気だるくまどろんでいるのも良い気分なのではあるが、 せっかく連れてきてもらったのに、動かないわけにもいかない。 「あ、すみません、セリス様」 長時間しっかりつかまったままだったため、じっとりとセリスの汗でぬれた腕。 しっくりくるその感触に名残惜しさを感じつつ、ユリアは腕をほどいて 馬から下りた。 「美しいです…」 セリスとともに、夜の川辺に降り立ったユリアは、目の前の光景に息をのんだ。 去年とは違う場所だが、耳に入る音が既視感を刺激する。 さらさらと流れる水、ちりちり…つー、つー…と、数種類の虫の鳴き声。 ほう、ほう…と鳥の声も遠くから聞こえる。満天の星空には、今日は月が出ていない。 それにかわって、目の前の水草に、地上を彩る星たちが我が夜を謳歌していた。 その光はあくまで弱く、ゆっくりと少し飛んでは心細そうに近くの草の葉にとまる姿は はかなさを感じさせる。左に右にゆらめく光は一瞬の残像を目に焼き付け、 次の瞬間には光の群れに混ざってしまう。 「よかったよ。きみとの約束を守れて」 じっとほたるの群れに見入っていたユリアに、優しく語りかけるセリス。 彼が見惚れていたのは、ほたるの群れか、それともそれを見つめるユリアの 純粋な瞳か。 「亡くなった人の魂も、こんな光を出してさまよっているのだろうか…?」 浮かんだ空想を、何となしにセリスは口に出した。 「セリス様…ありがとうございます。あのときのセリス様の言葉があったから、 私は戦うことができたのです。…約束を、果たせたのですよ。」 小さな、小さなユリアの声。だがその言葉は、ほたるの群れすべてを 包みこむに足りるほど温かかった。 あれから、ずっと考えてきた、あの言葉の意味。 記憶を失ったまま戦うことの怖さ。今なら、セリスにもわかる。 そもそも、ユリアはなぜセリスとともに戦ったのだろうか? セリスは、自分を育ててくれたティルナノグの人たちを救うため。 オイフェは、主君シグルドの敵討ち。 皆それぞれに、戦う理由を持っていた。だが、ユリアの場合はどうだろう? レヴィンやセリスたちへの恩義のため。 帝国の圧政から民衆を救いたいから。 セリスを含む仲間たちが好きで、自分が役に立つ居場所がほしいから。 確かにそんな理由はあった。 だが…もし、ユリアの記憶が戻ったら、どうだろう。 そのとき戦っている相手が、ユリアにとって大切な人だったら? 例えば、あのとき見たユリウス皇子が、ユリアの…双子の兄だったら!? そのとき、ユリア自身がよって立っていた価値観は、根底から崩れ去る。 信じてきたセリスたち解放軍を、今までの自分を、すべて否定して、 セリスのもとを…解放軍を去ることになるかもしれない。 あるいは、せっかく取り戻した過去のほうを否定するのか。 どちらにせよ、ユリアは大切なものを失わなければならない。 ユリアはあのとき、この世界の最も危うい場所に身を置いていたのである。 「ユリア…わかっていたんだよね。逃げたほうがいいかもしれないって。 なのにきみは、どうして戦えたの…?」 あらためてユリアの強さに感じ入り、わずかに震える声で尋ねる。 彼女の答えは、内容の複雑さに対して、口調は極めて明快だった。 「あのとき、ほたるの群れを見ていたら、わたしは苦しんでいたかもしれません。 わたしは間違った戦いをして、大切な人を殺めているかもしれない。 亡くなった人の重みが、ほたるのようにわたしの周りに集まって、 そう訴えているようでした。 もしそうだったら、わたしに罪を償うすべはありません…。」 焦点を定めずにほたるを見つめていたユリアの瞳が動き、 セリスをしっかりと見据えた。 「でも、私は逃げませんでした。理由はふたつあります。 まず、わたしも一人の人間です。何も働かずに食べているわけにはいきません。 わたしにできることでお役に立つのが、わたしが軍にいるために必要な義務でした。」 当然の事のように述べるユリアの横顔が、闇からしっかりと浮かび上がる。 ユリア以外の人にとっては、記憶が戻るまで決断を先延ばしにするという選択も、 決して弱くない、当たり前のことなのだが…。 「そしてあのとき、セリス様に教えられたのです。 記憶を失ったわたしでも、偽物ではありません。 あのとき、セリス様のお役に立ちたいと思っていたのは、本当のわたしの心です。 不完全でも、今信じることをしたいと思ったのは、わたしだったのです…!」 彼女には珍しく、強い口調で思いをほとばしらせる。 それほどに、これは彼女の芯を支えてきた柱だったのだろう。 「わたしには、本当の正義はわかりません。でも、そのときそのときに信じたことに 向かって戦うことで、わたしがここで生きた意味があると…思えるのです。」 双子の兄と戦うという途方もない運命に従う心の強さ。 それは、あの日から徐々にユリアの心の中で培われたものだったのである。 「ほたるを見て、信じることができます。 戦争をしたわたしの手は罪に塗れている…けれど、そんなわたしでも 生きることを許されている…と…。」 少女の口に出すにはあまりに壮大な言葉も、ユリアが言うと自然に響く。 それがかえって切なくて、セリスは正面からそっとユリアの手に触れた。 「ねえ、ユリア。ここに土を盛って、塚を作ろう」 ぱちくりとまばたきするユリアに、セリスは続ける。 「ぼくも今日、きみに教えられたことがあるんだ。 戦いに迷ったのは、きみだけじゃない。何のために、何を目指して戦うのか。 いそがしい毎日、つい忘れそうになるけど、本当はいちばん大切なことなんだ。 だからこれからも年に一度、ほたるを見に行って、その記録を残しておこう。 ぼくたちを…見つめなおすために…。」 土でかためただけの、両手におさまるくらいの小さな塚に。 二人はひざまずき、戦いの犠牲者たちに祈りを捧げた。 来年また、二人でほたるを見に来れるだろうか。 そのときの二人は、どんな関係になっているのだろうか。 そして、二人の生きた足跡を示す一里塚は、これからどれだけできるのだろうか。 静かにきらめく今日から、また来る明日へと。 無数のほたるの光に見守られ、セリスとユリアは手を取りあって歩みはじめた。 |