いつか、ひとつに(後編)


 「あなたはこのまま、当ての無い旅を続けるのですか…? …私と、ずっと一緒に暮らしてほしい…。」
 相手にアケビの花を贈り、愛を告げたのは、ファニーの方であった。 微かに赤い頬が彼女の緊張を物語るが、それでも笑顔で、堂々とした求婚である。 その振る舞いに、かえってハンニバルの方が戸惑ってしまった。
 「い、いけません。ご婦人のほうから、そのような…。」
 額からどっと汗を吹き出させつつ、ハンニバルは相手を制止しようとした。 しかし、ファニーはにっこり笑って切り返す。
 「あら、あなたの故郷ではそんな風習なのかしら?でも、レンスターでは違うのよ。 今度レンスターに来られるお妃様も、ご自分でキュアン様に求婚なさったそうよ。」
 言外に、もっと異文化を学びなさいよ、と言われているような気がして、 ハンニバルは言葉に詰まった。
 「父も認めてくれていますから、あなたさえその気なら、問題はありません。 …お返事、お待ちしています。」
 そう言って、ファニーはぺこりと頭を下げ、たたたっと小走りに去ってゆく。
 ハンニバルは、自分が難しい立場に立たされたことを知った。

 普通の立場なら、自分はこの求婚を受けただろうか?ハンニバルは分からなかった。 彼は、いまだ自分の気持ちに気づいていないのだ。だがこの際、それは問題ではなかった。
 自分は、トラキアの武人である。これまで何度、この称号を誇りに思ったことだろうか。 これまで何度、この言葉を励みに戦場で生き残ってきただろうか。 だが、彼は初めて、この立場ゆえに苦しむこととなった。
 トラキアの人間である以上、結婚してここで暮らすわけにはいかない。 断るにしても、正しい事情を話せないのだ。 「傭兵として、旅の暮らしが性に合っているから…」などと、 柄にもない嘘をつくしかないだろう。
 ファニーが真摯に自分に求婚しているのに、自分はその心を踏みにじることになるのだ。
 レンスターとトラキアという敵国の人同士の心をつかむ難しさは、ここにあるのか…。 「変える」ことは、難しいことなのだな…。 いつまでも両国の紛争が絶えない理由の一端を、ハンニバルは知った気がした。
 だが、この時すでに、彼には別の危機が迫っていたのである。

 「ハンニバル様、大変です!」
 その日の夜も更ける頃、カナッツが彼の部屋に飛びこんできた。
 「我々の正体が、周囲に知られたようです。村の中に、ハンニバル様の顔を 知っている敵兵がいたようで…。既に、追っ手が出ている模様。 村人の男が、村長にそう話していました。」
 「くっ…、油断したな…。」
 もともとこういった偵察では、特定の目的となる場所がない限り、 一つの場所に留まらないのが定石である。長居すれば、それだけ危険度が増すのだ。 それを知らぬハンニバルではない。では、何が彼の判断を狂わせたのか?
 …そうか…私は…。
 この時、ハンニバルは自分の想いにはじめて気づいた。
 だが今は、その先を考えている暇は無い。
 「…夜闇にまぎれて、脱出する。」
 ハンニバルたちは手早く荷物をまとめて、借りている小屋から密かに抜け出した。

 しとしとと、雨が降り始めていた。足音が消え、月も出ない闇夜。 脱出には好都合である。二人は、やすやすと村を脱出した。 ハンニバルは、後ろを振り返る。村長の家の薄明かりが揺らめいて、 自分を呼び止めているようだった。
 「…すまぬ、ファニー殿…。」
 ついに、返事すらできずに彼女と別れることになるのだ。 自分に尽くしてくれた彼女に、何一つ報いてやれず。その気持ちを裏切って…。
 その時、彼の背後…道の先から、声がかかった。
 「ハンニバル様…。」

 「…ファニー殿…。」
 口をぱくぱく開いたハンニバル。彼には、信じられなかった。
 雨具に身を包み、期待と不安を湛えた顔の女性が、目の前にいることを。
 その女性が、口にした言葉を。
 「やはり、そうだったのですね。あなたは傭兵ではなく、トラキアの方…。」
 その瞳に、ハンニバルを責める色は全く無い。だがそれゆえに、 ハンニバルにできることは、ただ謝ることだけだった。彼の頬を伝ったのは、 雨の粒だけだろうか?それとも…。
 「何もかも…申し訳ござらぬ…」
 そう言って、走り出そうとしたハンニバル。だがその前に、ファニーが口を開いた。
 「お待ち下さい。既に、周囲の村に伝令が行っています。おそらく、 街道は封鎖されているでしょう。」
 そして、予備の雨具とともに差し出された言葉に、ハンニバル達は唖然となった。
 「…逃げやすい山道が、別にあります。私が案内しましょう。」
 「な、なぜ…」
 自分たちを助けてくれるのが信じられず、カナッツは尋ねる。
 「今は一刻を争います。ハンニバル様、私を…信じてください。」
 ファニーと、ハンニバルの目が交錯する。…そして。
 「…かたじけない。ご案内願おう。」
 雨具に身を包んだ三人は、街道を横に逸れ、暗い草原を森に向かって歩き出した。

 「この山道は、私が一人で見つけました。村の人にも知られていないはずです。」
 言いつつ、ファニーはしっかりした足取りで泥濘を踏みしめ、歩んで行く。 その健脚に…そして、意思の力に、ハンニバルは驚いた。 暫く歩いたところで突然、薄暗い声が響いた。
 「…私の母はプリーストでしたが、トラキア兵に殺されたのです。 その兵士は、私の兄が…殺しました。その兄も、今はいません…。」
 闇を包み込む雨音に、さらに染み込むような、ファニーの声。
 「なぜ…戦わねばならないのでしょう。同じ、トラキアの人間が…。」
 これまでのハンニバルなら、搾取する者の綺麗ごとと一蹴したかもしれない。 それが、今はできなかった。ただ、無言で歩くのみ。
 「トラキアを、一つに。トラバント王の夢だそうですね。 私達は、その言葉を…、キュアン王子の夢として、聞いています。 …どうすれば、かなうのでしょうか…?」
 一つ一つの声音が、ハンニバルの胸中を圧迫する。彼は、やっとの思いで答えた。
 「…残念ながら、今は不可能です。トラキアの民は、レンスターのことを、 本来自分たちの物だったはずの恵みを不当に奪っていると感じています。 レンスターの見方とは、天と地の違いがあります。 …戦いを終わらせるには、その両方に言う事を聞かせられる… 『英雄』の存在が必要だろうと思います。」
 「英雄…。」
 「私は、王の勇姿に、英雄の姿を見たのです。王なら、トラキアをまとめられる。 そう思ったからこそ、仕えているのです…。」
 「でも…、人には、運不運がつきものです。もしも、トラバント王が 英雄になれなかったら?」
 「…その時は、次の時代を担う若い力…。人々をまとめられる人望と、 トラキアを一つにする思いのある者に、この身を託しましょう。」
 それは、以前から考えていたことではなかった。この旅で、ファニーの心に触れ、 ハンニバルに沸き起こった思いだったのである。

 森に入り、しばらく行くと、小さな小屋があった。ファニーはそこに入り、 中から一枚の羊皮紙を取って来る。それは、この裏道の地図だった。
 「これに従って行けば、トラキアへ帰れるはずです。 …それから、一つ…お願いがあります。」
 地図を受け取ったカナッツは、そそくさと小屋に入ってそれを読み始めた。 ハンニバルは無言でファニーに頷き、先を促す。

 「…私を、トラキアに連れて行ってください。あなたの夢を、手伝わせてください…!」

 瞳は意思によって、こんなにも強く光るものだったのだろうか。
 声は希望によって、こんなにも深く通るものだったのだろうか。

 他の人に夢を与え、与えられ、共有したことは、これまで何度もあった。 トラバント王、カナッツをはじめ、志を同じくする者は数多い。 だが、一人のひとと、夢を共にして生きたいと、これほど強く感じたことはなかった。
 そして…、夢のためにこそ、それを果たせない無念を。
 「それは…できません。私があなたをお連れしては、村の皆さんは 私を許さないでしょう。あなたを誘拐した者として、トラキアの人間は 非道だと謗られることになるのです。」
 ハンニバルは、ファニーの肩に手を置き、落ちついて語りかけた。 …その胸にある熱さを、今は見せる時ではない。
 ファニーは一瞬だけ目をつぶり、またもとの表情に戻った。
 「…でも、私は…あなたのために、何かをしたい。それは、私の夢でもあるから。 …そうね、これからもあなたに、この国の様子をお伝えしましょう。 国家機密などは分かりませんが、村や町の様子、お城の雰囲気ぐらいなら。 幼なじみには、レンスターの騎士になった人もいて、今でも時々会うのよ。 …レンスターとトラキアを一つにするには、お互いを知る必要があると思います。」
 トラキアへの情報流しは危険な行為だったが…、しばしの逡巡の後、 ハンニバルはそれを受け入れた。ファニーの思いを、汲みたかったから。
 「ありがたい。お願いする。…そして、トラキアの北と南で、新しい時代を読み、 国を一つにまとめる若い力を…ともに守り、育てましょう。」
 「はい。誓います。」
 「そして、夢がかなった…トラキアが一つになった、その日こそ…。 あなたと…。」
 そこまで言って、ハンニバルは口ごもる。ファニーも、何となく意図を察したようだが、 彼女は優しく彼を見つめ、次の言葉を待った。
 ハンニバルは、彼の生涯で最も無謀な提案を行った。
 「あなたと、ずっと一緒に暮らしたい…。」

 「…はい。」
 いつ実現するかも分からない、結婚の約束。…いや、空が白み始め、雨が止んだこの時、 すでに二人の心は結ばれていた。



 それから暫くの間、カナッツが国を空けるのと前後して、 ファニーの部屋には密かにアケビの花が添えられた手紙が舞い込み、 あるいは出て行くことが時々あった。だがその時期も、数年のうちに終わりを告げる。
 キュアンが倒れ、間もなくレンスター城は落ちる。だが、レンスターの残党の 復活にかける思いの強さと、王子リーフへの期待の強さを、ファニーを通して ハンニバルは正しく掴んでいた。 そのような人物は、トラキアで彼一人だけと言って良いだろう。
 レンスター陥落後、ファニーはターラの町に逃れ、修道院に入った。 次代のトラキアを担う人を育てた功績は大きく、彼女たちはリーフやナンナを保護し、 サフィやアスベルなどトラキア解放に力を注いだ多くの人が育ったという。
 ハンニバルは、いつしかどこかで感じていた。新しい時代の流れは、 レンスターの力、若い力がもたらすことを…。
 グランベル帝国の真の危険がロプト教団にあることも、彼はいち早く察知した。 行きずりの踊り子・シルヴィアに彼女の息子の世話を頼まれた時、 すぐに引き受けたのも、偶然ではない。
 ルー・ファリスと名乗る少年の眼に、彼は自らの初陣の日に見た ゲイボルグの騎士の面影を見た。

 「わしは、武人の道に反する行動をした。おめおめ生き長らえ、 あまつさえ祖国に刃を向けて兵の命を預かって良いものか…。」
 トラキアのアリオーンと戦うことになった、将軍ハンニバルの言葉である。 彼の忠実な伴として常に側にいたカナッツは、風格のある中年となった主人に 若さを取り戻そうとしたのか、このように切り返した。
 「ファニー殿なら、こうおっしゃるでしょう。あなたは…決められた 武人の道には反したかもしれないが、自分の頭で考え、 ユグドラルの人のためを思って、より大きな視点で行動したのです、と。」

 グラン歴780年。新トラキア王妃は、久しぶりに昔の顔に戻って夫に嬉々として 報告した。
 「ターラでお世話になったファニーさんが、結婚するんですって。」
 「それは良かった。で、相手は…?」
 妻が耳打ちした時、リーフは天井まで飛び上がって驚愕したという。


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