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歪められた夢
「一体なぜ…!?」 驚きの声をあげたサフィに、老年の市長代行は言った。 「我らにも分からないのです。 リノアン様がなぜ、そしていつの間にターラの街を離れられたのか」 リノアンがターラを離れるというのは、全く考えられないことだった。 トラキア半島をめぐる戦争が終結した直後、彼女が真っ先に行なったのはターラの奪回と復興であった。 最近は政務を議員や市長代行に任せて第一線からは身を引いていたとはいえ、 何よりもターラのことを第一に考えていた彼女が街を捨てるはずがなかった。 「しかし事実なのです」 市長代行は暗い表情で言った。 「近頃、リノアン様は物憂げな表情をなさることが多く、何か悩んでいらっしゃる様子でした。 そしてある日、部屋に置手紙だけを残して消えてしまわれたのです。 『私には行くところがあります。何も心配することはありません。ターラをよろしくお願いします』と。 現在このことは市民には知らせておりませんが、いつ知れるとも…」 サフィの顔に影がさした。彼女の目的が今や明確になった気がしたからである。しかしそれに気付かず、市長代行は続けた。 「あなたはリノアン様の相談役でした。捜索隊を密かに出したいのですが、何か手がかりはございませんか?」 手がかりはある。しかし、リノアンの名誉に賭けて口に出すことはできない。サフィは瞬時に決意した。 「推測に過ぎませんが、手がかりはあります。ただし、私が一人で捜しに参ります。 隊などを組めば目立つでしょう?…大丈夫です、私も自分の身くらいは守れますから」 市長代行は心配そうであったが、他に手がかりはない。結局、彼女が行くことに決まった。 「ただし、妹に…ティナには私の任務を教えないようにして下さい。ついて来られたら困りますから」 サフィが向かったのは、南トラキアだった。 リノアンが悩んだ末に行くところといえば、竜騎士ディーンもしくはアリオーン王子のもとであろうと予想したのである。 治安はまだ悪いが、仕方ない。杖と魔道書を手に、彼女は南へと旅立った。 「ブラギよ、我らが愛する神よ。リノアン様に、そして私にご加護を。全てが穏やかに収まりますように」 日々何度となく唱える神の名。それを口にするだけで、自分の心身に新たな力が湧くような気がした。 子供の頃から真っ直ぐな心で受け入れてきた信仰は、彼女に大きな力と勇気を与えていた。 もっとも彼女の場合、信仰が厚い上に度胸が座りすぎて、無茶につながる場合もあるのだが。 一週間後、彼女は南北トラキア国境の山間部にさしかかっていた。 この地は岩がちで乾燥しており、起伏が多い。旅をするのも楽ではない。 そろそろ集落に寄って水や食料を手に入れないと。 そう考えていた彼女の眼に、人家のぽつぽつと建っているのが映った。 「村に違いないわ。神よ、感謝します。あそこで休もうかしら」 村に近づくと、妙な臭いが彼女の鼻をついた。 この臭いはよく知っている。聖戦で絶えずつきまとっていたもの。そう、金属と血と死の臭い。戦の臭いだ。 いや、そんな馬鹿な。今はもう戦は終わった。貧しくこそあれ、戦いが起こるはずは… 胸騒ぎを抑えながら村に駆け込んだ彼女が見たのは、思った通りの光景だった。 恐らく軍隊のものであろう馬の足跡、折れた武器、そして、四方に残る血の跡と動かない人々。 戦乱の時には見慣れていたはずのこの光景だが、平和と思っていた時に見るにはあまりにも凄惨だ。 膝が震えるのを感じながら、彼女は立ち尽くしていた。 不意にサフィは我に帰った。 生存者がいるなら、助けなければ。 何とか気を取り直すと、彼女は倒れている人々を確認し始めた。 しかし、徒労に終わりそうだった。どこのとも知れぬ軍隊は、きっちりと任務を果たしたようだ。 村を一巡りした後、彼女はそう考えた。 そのとき、片隅に倒れていた老人がぴくりと動いた。 まだ息がある。サフィは急いで駆け寄ると、杖を取り出しながら問うた。 「一体何があったのです」 老人はその声にわずかに反応すると、かすれるような声で言った。 「レンスター軍が山賊討伐と称してこの村を襲ったんじゃ。 そんな横暴に耐えられるはずがない。わしらは武器を取ったのじゃが…」 「レンスター!?そんな!」 老人はもう答えなかった。 周囲に点在した集落群も廃墟となっていることを知り、彼女はますます絶望に追い込まれた。 恐らく、誤報によってレンスター軍が動いてしまったのだろう。 それがきっかけとなって、民族あるいはそれに類した感情のもつれから争いの火種が燃え上がり…。 村同士、時には国家間の中傷や情報操作によって、このようなことが起こるのは珍しくない。 魔法文化が発達しているとはいえ、それを使いこなせるのはごく一部の人間だけ。 情報伝達には馬が主流となっている世の中で、正確な情報をつかむ方が難しいのだ。 「でも…だからといって、こんなことになってしまうなんて」 彼女は戦乱の中で、これと同等の、あるいはこれ以上の惨劇を目にしてきた。 同じ半島に住まう人間が、レンスター人、トラキア人、山の民、中立の民、帝国派、その他無数の派閥に分かれて殺しあう姿を。 同じ神を信仰していながら、隣人同士区別しあい、昨日の友人が今日は仇となることも珍しくはなかった。 同じ神を信仰していながら…。 信仰が存在したとしても、それによって人の心をひとつにできないなんて。 「神よ。あなたは、そこまで無力な存在だというのですか。 それとも、あなたはこの世界にもはや関心を持たないというのですか…」 考えれば考えるほど、彼女の想いは暗くなっていった。と、そこに思わぬ女性の声がした。 「どうしたのですか、サフィ?」 彼女は思わず振り向いた。そこにはリノアンがいた。 リノアンは全く変わっていなかった。 いや、以前より一層、驚くほどに美しくなっていた。 さらによく見ると、以前と変わりないように見えた衣装すらも大きく変わっていた。 マントとロングスカートは薄く透き通る生地で織られ、ほっそりした手足や腰がうっすら見える。 胸元を強調する造りの衣装は、彼女の引き締まった身体をぐっと引き立てていた。 「一体、どこで何をしておられたのですか?」 「ふふ。貴方が予想している通りだと思いますよ」 何とでも取れる答えの後、彼女は話し続けた。 「私は答えを見つけました。そして、貴方に会うために戻る途中だったのです」 ここで彼女はあたりを見回した。 「殺し合い…異教徒同士でもなく、それどころか人種としてはるかに近いはずの、兄弟といえる人々。 それが何らかのきっかけによってたやすく、互いに血で血を争う仇となるのですね。 戦争が終わろうと、その死の螺旋は終わらない。深く深くで、いつまでもいつまでも火種としてくすぶり続ける」 悲しげにひとりつぶやくリノアンの言葉に、サフィは一層重い、暗い心持ちになった。 「サフィ…あなたにだけは、言わないといけません」 リノアンがより悲しげな声で、表情で、サフィに訴えた。 その愛らしく美しい顔から、今にも悲しみの雫がこぼれ落ちそうだ。 彼女に涙させるとは、この世は何と罪深い存在なのか。サフィは思わずそう感じた。 「この殺戮を引き起こすきっかけとなったのは…私なのです」 「え…!」 一体何を言うのか。美しい少女の言葉に、サフィは言葉が出なかった。 「私の美しさ、魅力。この恐ろしい武器を振るう誘惑を、抑えることができなかったの。 この近くの村に、美しく整った顔立ちの姉弟がいたから、私は彼らの心を捕え、戯れに言いました。 偽装した山賊の村だとレンスター軍に密告せよ、と…。 もちろん近くにいた部隊の長が、正義感は強いけど、冷静さに欠けるのを…知って… 彼らは、面白いほど…素直に、巧みに…密告し、そして…そして…」 言葉が途切れた。その宝石のような瞳から水晶のような雫がこぼれ、血と埃にまみれた大地に吸われた。 サフィの心は怒りと、困惑と、恐怖でいっぱいだった。 だがサフィは、自分の主人であり、妹のような存在でもある彼女を責める気にはなれなかった。 彼女のような美しさを備えたなら、誰がその魔力を試さずにいられようか。 罪の意識にか、それとも己の魔性の美にか、打ち震えて涙するリノアンの肩にサフィはそっと触れた。 「リノアン様…あなたのしたことは罪。否定はできません。 しかし、どんな力でも使い方によって正負両面に転がる可能性を秘めています。 どうか自分の罪を悔いるだけでなく、これからはその力を、何かを生み出す方向にお使い下さい… この世界を見守りたもう神のためにも」 「この世界を見守りたもう、神…」 リノアンは涙をぬぐい、静かにその言葉を繰り返した。 「サフィ、あなたも気付いているのでは?ブラギの教えは光と秩序をもたらすもの。 しかし、この戦乱によって根付いた混沌の中では、秩序など一瞬にして消えてしまうことを。 混沌の中たちどころに秩序を与える教え、大いなる導き手のもと、平和を与える教えこそ必要なもの。 かつては光の神ブラギが、次いで聖者ヘイムが、それを成し遂げました」 それは真実だとサフィは感じた。教えがあっても寄る辺がなければ、誰を頼ればいい?隣人すらも頼れない人々は。 「しかしリノアン様。今、みんなが従ってくれるほどの魅力を持つ者は、この大陸にいないのでは。 だからこそセリス王やリーフ様が…」 「駄目なんです。望むと望まざるに関わらず、王は民からあまりにも遠すぎる存在…」 そこにも真実がある。民と王の関係は、密接に関わっていながら驚くほど遠い。 「では、リノアン様が…?」 彼女ほど美しければ…だが、リノアンは首を横に振った。 「多くの人が私を美しいと思い、そして私の虜になるでしょう。 でも、私は支配者になれても、カリスマ的な存在にはなれない。全てを惹きつける魅力はないの…」 ここで一区切りした後、リノアンはそっと目を閉じて言った。 「でも、私よりはるかに強く、美しい方を見出すことができた。 私に美を気付かせ、さらなる魅力を与えたのもその人…。恐ろしくも美しい、素晴らしき人…」 サフィは目を見張った。今のリノアンよりも美しく魅力的な人がいるなんて。 それほどの人ならば、未だ混乱が収まったとはいえないこの大陸を急速に平和にすることも… いや、しかし全ての民を救うことなど、本当に可能なのだろうか?神にも出来ないことなのに。 「難しいからこそ、貴女の助けが必要なのです」 心を読んだかのように、リノアンが静かに言った。 「全ての民が彼女のことを知れるように。誤った教えを正し、真の道を示せるように。 神の強力さと無力さの両方を知る貴女が、必要なの、サフィ…」 細い指でサフィの頭を覆うフードが下ろされ、耳元にため息のような甘いささやき声が響き渡り、 次の瞬間…リノアンの唇が、サフィの唇に触れた。 天にも昇るような、精神が空の果てまでも飛んでいってしまうような、心地よさ。 一瞬、ほんの一瞬のことでありながら、サフィの心はリノアンに甘く、きつく包み込まれてしまった。 「おいでなさい…」 夢心地で、サフィはいつの間にか黒い神殿へといざなわれていた。 そこで彼女が見たのは、長い紫の髪を輝かせた黒衣の少女。 見ようによっては、彼女よりリノアンの方がずっと美しく力強いようにも見えた。 だがその少女を見た瞬間、サフィは直感した。理屈ではなかった。 彼女は…ユリアは、誰も上に立つことの出来ない絶対的な魅力を備えていると。 彼女の赤く光り輝く瞳を見た瞬間、サフィの脳内にはある情景が鮮明に映った。 王都バーハラに「瞳」の旗印がひるがえり、大陸を紫髪の女帝ユリアが治める光景だった。 民は皆喜んで、同じ神を信じていた。 そして、民には以前はなかった、驚くほどの自由があった。 聖職者としての戒律を厳格に守って生きてきたサフィには、羨ましい世界だった。 その教義はブラギのものとは全く違う。だが自由でありながら、神の教えのもとに新たな秩序があった。 その光景に恍惚となるサフィの頭に、ユリアの声が響いてきた。 この世で最も純粋な銀のような響き。 「それこそが、ロプト帝国。 このユリアの絶対的な魅力のもと、ロプトウスの教えが、閉塞してしまった大陸に新たな気概をもたらす。 サフィ…神も全能ではありません。知っていますよね。 だからこそわたしには、あなたが必要なんです。 古き神の力と限界を知り、新たなる神の限界と新たなる力をも理解できる、あなたが。 神をよく知るあなたの言葉と魔力は、多くの人に真のロプトウスの教えを広める大きな力となるでしょう。 あなたの努力が、そのまま、この大陸の平和に結びついていくのです…」 その言葉が、傷つき折れたサフィの信仰心を再び燃え上がらせた。 新たなる神ロプトウス、そしてその化身である闇の皇女ユリアへの信仰心を…。 今の彼女には、ロプトの教義が必要であった。 人の心にたやすく浸透し、ひとつの神の教えのもと、同族同胞で相争うことのない教え。 短所もある教えだが、絶対的な、完全な教えなど、この世には存在しない。 人々の脳内に直接、平和を愛する心を植えつけられるなら、争いや憎しみが急速に消えていく。 今の世の中にはリノアンのような、ユリアのような力ある人が必要なのだ――。 彼女はブラギ僧の白い長衣を脱ぎ捨てた。 闇の奔流の中で、その衣は跡形も残さずチリとなって消えうせた。 人であることを辞めた今もなお白い衣をまとう彼女だが、もうサフィと言う名前ではなかった。 信仰を変えると同時に、その名も記憶も心も生まれ変わったのだ。魔将ズィーベンに。 胸元を際立たせ、腹部を露出し、スリットの深く入った衣をまとう彼女。 「ずいぶん、大胆になりましたね。サフィ…いいえ、ズィーベン」 「生まれ変わったからです、リノアン様…いいえ、フィーア様」 大胆に露出された腹部には、黒竜の紋様がうっすらと明滅している。 以前はしていなかった化粧をうっすらと施したその顔には、以前より魅惑的な表情が浮かんでいた。 「ブラギの教えにおいては、清貧と禁欲と守護が必要でした。 しかしロプトの教えでは、肉体と精神の解放、そして積極的な攻めが善とされます。 守りに入って敗れてしまえば意味はない。敗者に権利はありません。 そして長きに渡る停滞は、世界から活力を奪っていくでしょう。 容姿でも、魔力でも、挑戦し続けることにこそ価値がある。 布教も同じ…それは、人間誰もが心の中に持つ、本能を引き出すだけのこと。 たとえ洗脳と言われようと、ロプトの教えを私は広めます。それが使命であり、悦び」 一言一言を自分に言い聞かせるかのように、ズィーベンはゆっくりと言った。 「せっかくだけど、このフィーアにはロプトの定義など関係ありません… 私の美しさをユリア様のために、そして自分の愉しみのために用いればそれで満足」 「それでも構いません。フィーア様には力があり、力ある者には権利があるのですから。 ただし、その力は濫用なさってはいけません」 「そうですね、控えなければ。できるだけ…ね」 くすりと犯罪的な魅力の微笑を浮かべ、ふとフィーアは言った。 「『彼女』を、迎えに行くのでしょう?」 「ええ。『あの子』も無力を嘆き、力を渇望するうちのひとり。十分に資格はあります」 (コメント by マルチくうねる)こちらは、磯辺巻き様から投稿していただいた小説です。 「闇の皇女」の加筆修正版、サフィの物語です。 改訂前と比べ、サフィはこの殺戮がリノアンの篭絡によるものである事実を把握し、 そのうえで自らこの教えを信じていること、「くちづけ」が重要な要素になっていること などが大きな変更点ですね。 心を染めて方向を統一することにより、人は何を得て、何を失うのでしょうか。 この小説と関連したイラストを、 魔道美術隊にて展示しています。 磯辺巻きさんの作品、ぜひ一緒にご覧になってください。 感想を伝えたいという方は、磯辺巻きさんあてに メールでお願いします。(ぺこり) |