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迷いの救い手
「おはようございます、ユリア様。さあ、今日も早速」 「おはようございます、マンフロイ…。ええ、言わなくても分かって…います」 黒い衣をまとったユリアは不安げな表情を浮かべながら、卓に座った。 テーブルの上には、厚く大きい黒表紙の書物が置かれている。 一瞬ためらった後、彼女はその書物におずおずと手を伸ばした。 本の中ほどに、奇妙な形をしたしおりが挟まれている。 ユリアはそのページを開いた。黒い紙に、ユグドラル大陸のどの文字とも違う、記号のようなものがびっしりと書き込まれている。 「ここまでは読んだわ。今日は、この、次…」 顔を緊張させ、深く息を吸うと、彼女はゆっくりとページをめくった。 新しいページが開かれた瞬間、その白い手を通じ、彼女の身体に黒い電流のようなものが走った。 「う…くはっ、あ、ぐうっ」 雷の脈動に合わせ、低い悲鳴と共にユリアの身体がびくんびくんと揺れた。 だが顔には何の感情も表れず、赤い目は見開かれたまま、うつろに宙を見つめ続けている。 数分ほど続いただろうか。電流が収まり、ユリアは肩で息をつきながらその書物を閉じた。 「改めまして、おはようございます、ユリア皇女。今日もご機嫌麗しゅう」 「はあ、はあ…フフフ…。ご苦労です、マンフロイ」 疲れてはいたが、ユリアの顔に先ほどまでの不安げな表情は微塵もない。 赤い瞳が色っぽく輝き、肌の露出の多い衣とよく合った美しさをかもし出していた。 「だいぶロプトウスの書を読み進められましたな。さすがの精神力にございます」 「ふふ…。これしき、兄上の帝国を継ぐ者として当然のことです。ロプトウス様の全魔力を、早くわたしのものにしなくては」 疲れを浮かばせながらも、彼女は気丈に、そして美しく言った。 可憐さと妖しさが今の彼女には同居していた。 「ところで…人選は進められましたかな?」 「…はい。変更はありません。『彼女達』から、始めます」 「やはり女性、しかもかの者達ですか。管理が少々難しいものとなりますが…」 「いいんです。より力ある者を選び、なおかつ敵の力を削ぐためには」 澄んだ宝玉のようなユリアの瞳が…ぎらりと冷たく光った。 「それとも、わたしの決定にまだ異論があるというのですか…?マンフロイ」 「い、いえ滅相もない。では、準備をさせましょう」 その言葉に、氷のようだった彼女の瞳が、再び柔らかく細められた。 「ええ…。あとはあなたの思い通りに進めてください」 一瞬恐ろしい眼を見せたユリアに頭を下げながらも、マンフロイは密かな満足を覚えた。 ―確実に一歩ずつ、この娘はロプトの長にふさわしい成長を遂げておる…。 ナンナは深くため息をついた。 ―どちらの国を選べばいいの。 今の彼女はフリーナイト、いわば雇われ騎士として各国を放浪して転戦していた。 聖戦から1年、各国の混乱はまだまだ収まる気配を見せない。 身分のさほど高くない若い騎士が、力試しや仕官先探しのため各国に雇われて戦うのもよくあることであった。 だが聖戦で活躍を見せた、しかも高貴な彼女がそのようなことをするのには理由があった。 婚姻相手の問題である。 17になった彼女は、もう十分結婚をしてもいい年頃であった。 現に各地の名族から、ある時は暗に、ある時は公式に、結婚の申し込みがあったほどである。 その中でも特に一頭抜けていたのは2人。 レンスター王のリーフと、ノディオン公アグストリア王のアレスである。 公式の申し込みはまだなかったとはいえ、2人とも聖戦中に彼女へ暗に想いを打ち明けていた。 素朴な優しさと真っ直ぐさを持つリーフ。厳しい荒々しさの中にあたたかさを秘めたアレス。 全く対称的な2人の気持ちに、ナンナの心は自分でも驚くほど揺れた。 子供の頃から淡い想いを抱き続け、成長するにつれより強い慕情を抱くようになっているもの。 長い間遠く離れていながら、血の中に眠る記憶を熱く呼び覚まし、惹きつけて止まないもの。 2人の男性への思いは、そのままレンスターとアグストリアという大地への想いでもあった。 それを決めきれないからこそ、彼女は自由騎士となって身を定めなかったのである。 リーフもアレスも、自分を育ててくれたフィンも彼女の気持ちを汲んで何も言わなかった。 こうして、遠く離れた2国やその他多くの国で武勲を挙げながら、ますます彼女は道を決めきれずにいた。 「どうしたらいいかしら」 レンスターとアグストリアのちょうど中間にあたる宿屋の自室で、彼女は独り言を言った。 次回の仕官先をまだ決めていなかったのだ。 レンスター、アグストリア、両国とも平定のためにまだまだ戦いは続いている。 それとも他の国で戦ってみるべきか。彼女の腕ならいずれにせよ問題はない。行けば即戦力として採用されるだろう。 だがそれは、何百度目になるか分からない自問自答でもあった。 答えが出ないのを分かりきっていながら、人生を決めることから逃れるための。 だがその堂々巡りは、突然のノックによって運悪く、あるいは運良く中断された。 「どなた?」 「ナンナ様ですか?…ユリアです」 「ユリア!?」 永遠のループをしている場合ではない。聖戦中に行方不明となったユリアがここにいるのなら。 彼女はドアにかけより、それを開けた。 つややかな紫銀色の髪と白い肌、純白のマントの少女ユリアが、そこに立っていた。 「ユリア!本当にユリアなのね。無事でよかった…」 「会えて…本当に嬉しいです。ナンナ様」 銀の鳴るような澄んだ声も、以前のままだった。 無口でいつもセリスの側にいたユリアと、リーフの側にいたナンナ。 さほど言葉を交わしたことはないが、セリスとリーフが会談する時、2人もよくその場にいた。 聖戦の途中で姿を消したユリアに、ナンナは密かに心を痛めていたのである。 そのユリアが今、目の前で優しく微笑んでいる。 「ナンナ様。実はわたし…ナンナ様のお悩みをお救いしたくて、来たんです」 「私の…悩み?」 会うなり心中を見透かされたような気がして、ナンナは驚くというより不安を抱いた。 「はい。ふたつの国、ふたりの男性。そこに苦しむナンナ様のお心を」 不安が寒気に変わった。どうしてそれを… 「大丈夫です。ただ、私の瞳さえ見ればいいんです」 ナンナが答えるよりも先に、ユリアは両手で彼女の顔に触れると…その澄みきった眼で、じっとナンナを見つめた。 とたんにナンナは目まいのような、奇妙な感覚を覚えた。 周囲の世界がゆらめき、ぐるぐると回り始め、その中で、ユリアの瞳だけがはっきりと見えた。 だが、その紫の輝きさえも揺らめいて…赤い宝玉の燃えるような光が、それに取って代わった。 おかしいとは思った。だが、目が離せない。真紅の双眸に、ナンナはもはや釘付けとなっていた。 「…ナンナ。わたしの言葉を、よくお聞きなさい」 ユリアの声のトーンまでもが変わった。…いや、幻覚によって感覚が乱れたせいなのだろうか? 銀の声が、時に全身を震わすほど低く恐ろしく、時に耳元をくすぐるように高く甘く、何重にもなって響いてくる。 「あなたはふたつの心の狭間で揺れ、いずれにも踏み出せずにいる。 ならば、わたしがもうひとつの道を示し、あなたの迷いを消し去ってあげます」 ナンナは言葉を発しようとした。だが、唇がかすかに動くだけ。息ができないような苦しさがある。 「わたしの瞳だけを見て…。わたしだけに仕えて。そうすれば、あなたの苦しみを忘れさせてあげられます…」 かのじょの、あかいひとみ。 それだけを見ていればいいのなら…、簡単だ。忘れられる。逃れられる。きっと。 意志の力を振り絞って立っていたナンナの膝ががくりと崩れ、彼女はその場にくたりと座り込んだ。 「よかった…。さあ、一緒においでなさい。わたしたちの聖地へ」 頭をゆらゆらと揺らしながら、ナンナは薄く微笑み…意識を失った。 ナンナが次に目を覚ました時、彼女の意識は恐ろしいほどはっきりしていた。 自分はどこかに横たわっている。今までになかったほど五感が研ぎ澄まされ、身体は驚くほど軽い。 どうやら神殿のようだ。壁も天井も、見たことのない黒い物質でできている。 明かりはないが不思議な「明るさ」が、辺り一面を照らしているらしい。「光」はないが、暗さは感じない。 「目を、覚ましたんですね。よかった」 耳元で低く、銀が鳴った。彼女は身を起こした。 ユリアが立っている。だが今の彼女は、白いマントをまとってはいない。 露出の多い黒の服、透き通る布で織られた、何色ともつかないマント。 だが今の彼女の赤い瞳、影のある可愛らしさには、無遠慮な白よりもずっと映えて見えた。 ユリアの隣には、厚く黒いローブをまとった醜い老人がにやにやと不快な笑いを浮かべている。 どこかで見たような気がするが、なぜか思い出せない。 「ほほう、この娘が、記念すべき一人目というわけですか」 「ええ。黒騎士ヘズルの血を引く逸材です。出来の方はどう見えますか」 「さすがはユリア様、といったところですな。屍を動かす魔将とは比べようのない性能です」 自分のことを言っているらしいが、まるで物のような言い草だ。しかし意外と不愉快さは感じない。 「わたしの騎士様…。あなたが眠っている間に、からだと心に手を加えておきました。 鏡に映して見てください。生まれ変わった、今のあなたを」 折りよく部屋に置いてある全身鏡に、ナンナは自分の姿を映した。 黒く染まりきった、トレードマークの羽根飾り。 体にフィットした、露出の多い胴鎧。 赤い不気味な光を放つ大剣と、瞳の紋章が刻まれた大盾。 そして、赤く染まり、妖しい輝きを宿す、二つの瞳。 美しさと力を宿す、人間の境地を超越した肉体と精神。 それが今の自分だった。 「これが、新しい私なのね…」 ナンナは満足そうにため息をついた。 「そう。代わりにあなたから、不要な以前の記憶、能力を消し去っておきました。 今あなたが持っているのは、これから必要になる能力と記憶だけ。精神を乱すようなものはいらない。 …そうでしょう?」 言われて、ナンナは自分が何か、重大な迷いを以前に持っていたことを思い出した。 だがそれが何なのか、もはや思い出すことはできなかった。 それどころかほんの数秒のうちに、彼女は迷っていたことも忘れきってしまったのだ。 彼女は振り向き、感謝の瞳でユリアを見た。 ユリアの赤い瞳が、彼女を見据えた瞬間、ナンナにはユリアしか見えなくなった。 ―彼女は悩んでいた哀れな私を救い、生まれ変わらせてくれた。騎士。黒騎士ヘズルの血を引く騎士に。 …騎士にできるのは、与えられた恩に対し、忠誠を尽くすこと。 誰よりも美しく恐ろしい瞳を持つこのひとに、私は永遠の忠誠を尽くそう― その場にひざまずき、ユリアの手を取って口づけすると、ナンナは言った。 「誰よりも美しく、強く、恐ろしい方、我が君ユリア様。 私は騎士として、あなたに終生の忠誠を尽くします。どうぞご命令を」 ユリアは微笑んで、ナンナの頭にその白い手を置いた。 「我がしもべよ、あなたの忠誠を受けましょう。 『ナンナ』は、人間があなたを呼ぶ仮の名。今よりあなたは『アインス』… 選ばれしロプト帝国十二魔将のひとり、黒騎士アインスと名乗りなさい」 「おおせのままに」 聖戦士ナンナ。彼女は今、聖戦士の宿敵として生まれ変わったのだ。 「アインス。早速ですが、あなたにふたつの任務を与えましょう…」 リノアンは深くため息をついた。 ―どちらを選べばよいのでしょう。 聖戦後、中立を取り戻したターラで、彼女は変わらず市長として敏腕を振るっていた。 まだ十代半ばの若さでありながら、その手腕には非の打ち所がない。 さらにその整った容姿には、年齢相応の愛らしさに加え、 年に似合わない大人っぽい深い落ち着きと物静かさが同居している。 補佐する老練な政務官たちも、目を見張らずにはおれなかった。 だがこのところ、その彼女の様子がおかしくなり始めたのだ。 その理由ははっきりしている。 「街は順調に復興してきていますが、資金面でまだまだ問題を抱えております。 そろそろ延び延びになっていたトラキアとの提携を進めるころでしょうかな」 会議で多くの政務官がこう発言するようになったのだ。 レンスターとトラキアの中間に位置するターラだが、聖戦で帝国側に与したトラキアは終戦後 「制裁」として厳しい輸入制限を制定されていた。 若い王であるセリスやリーフらの尽力によってその壁は取り払われつつあったものの、 いわゆる「政治上の理由」により、中立都市であるターラが独自のルートで手を回すしかなかったのである。 だがこれからトラキアと諸国の関係を良くしていかねば、今後トラキア国民が不満を持ちかねない。 最悪、兄弟国であるレンスターとトラキアが互いを食い合う戦争にも発展しかねない。 それを救うために、両国間に位置するターラが率先して歩み寄りを助ける必要があるのだ。 現市長であるリノアンは、グランベル王系であるナーガの血を引き、さらにレンスターとも親交が深い。 だがそれに比べ、トラキアとの関係はまだまだ薄く、かの国の民もさほど信を置いてはいない。 そのために発案されたのが、前大戦のどさくさで先延ばしになっていた 「トラキア王アリオーンと、ターラ市長リノアンの婚姻」であった。 この世界における女性の地位は、こちらの世界の中世とは比較にならないほど高い。 リノアンはトラキア王妃となりながら、ターラ公の地位をも保持できる。 北方諸国との親交を続け、トラキアの地位を向上させ、ターラを両国間の貿易で潤わせる、一石三鳥。 確かに絶好の策であった。 だが、当のリノアン市長がなかなかうんと言わない。 政務官には1人として知る者はいなかった。 以前、彼女と心を通わせたひとりの竜騎士がいたことを…。 だが、先の聖戦で彼は彼女を守るために祖国を捨て、今や流浪の傭兵としてさまよう身。 「俺のことなど忘れろ」 どこへともなく消えた彼と結ばれるなど、誰も認めてはくれまい。やむを得ないことだ。 それにアリオーンは容姿麗しく、武勇人並優れ、竜騎士ダインの再来とも言われる英雄。 さらにその紳士的な物腰には、非の打ち所一つない。恵まれすぎた相手ではないか。 そう考えて決断しようとするリノアンだったが、そうするとあの無愛想な男の面影が蘇るのだ。 薄汚く、骨ばり、粗野で、気まぐれで…だが、その実誰よりも優しくたくましい竜騎士。 アリオーンが嫌いなのではない。むしろ初めて会った時は胸の高鳴りすら覚えた。でも… 一体自分は誰に思いを寄せていて、どうしたいのか。 真っ二つに引き裂かれそうな心の中で、リノアンは悩み苦しみ続けた。 唯一自分の胸中を知る僧侶サフィはいつも優しく慰めてくれたが、彼女は孤独だった。 一心に「神」と「リノアン」を心配していればいいサフィに、自分のことは理解できない…。 苦しみぬいたある日…。気がつくと彼女は変装して城門を抜け出し、トラキアへの道をたどっていたのだ。 「一体、私はどうしたいの」 トラキアへ休みなく歩き続けながら、彼女は何度となく自問自答した。 祖国を追放された竜騎士ディーンがトラキアにいるはずがない。 アリオーンに会ったところで、彼の魅力に触れて悩みが二重にも三重にもなるだけのこと。 分かりきっているのに。 悩みはらせんを描いて、彼女をぐるぐる巻きに縛りつけた。それでも彼女は歩み続けた。 そして何日間歩き続けたところだろうか。 彼女の眼前に、不意にひとりの人間が立っていたのだ。 マントを着てフードをかぶった、細身の人間。男女どちらかは区別できない。 リノアンはそっとマントの下の魔道書を手にすると、用心しながらその人影に向かって近づいた。 だが、その用心は杞憂だった。 「リノアン様…よかった、待っていたの」 彼女の姿を確認すると、その人影はフードを取った。 リノアンはほっと安心のため息をついた。 ショートボブの金髪に羽根飾をつけた、背の高い少女と言えば、ナンナ以外ありえない。 「ナンナ様!一体どうしたの、こんなところで」 「あなたのことを待っていたの。ある人の伝言を伝えたくて」 リノアンはどきりとした。もしやディーンかアリオーンの… だが、その思考はすぐに遮られた。ナンナが驚くほど近くに寄ってくると、リノアンの眼をじっと見つめたのだ。 遠目からでは青かったナンナの瞳が…血のような赤にきらりと輝いた。 背の高いナンナの瞳を、リノアンはやや見上げるようにしてじっと見つめた。 目を、離せなくなって、しまったのだ。 「思ったとおり、あなたには悩みがある…ふたつに引き裂かれそうな想い。 聖戦を経て、それはなくなるどころか、もっともっと重く苦しく、のしかかっているわ」 「…!!」 彼女の赤い瞳は、自分の胸の奥底まで見通しているのではないか。 リノアンは恐怖と恥のあまり、消えてしまいたいと思った。 「大丈夫。私もふたつの想いに悩んで…そして、それを克服したのよ。あるひとの助けで」 その言葉が、リノアンの心を大きく揺さぶった。 「…助けて、ほしい?あなたも」 赤い瞳に酔ったようになりながら、彼女はこくこくとうなずいた。 そこから先の記憶は、不思議と乱れた。 気がつくとリノアンは黒い神殿の中にいて、紫色の髪の少女と向かい合っていた。 少女の瞳を見た瞬間の感覚は…ナンナの瞳よりもずっと深かった、としか言いようがない。 恍惚とした夢心地のまま、彼女の意識は飛んだ。 「さあ、目覚めて…」 銀色の澄んだ声でささやかれ、朦朧としていた意識が急に晴れた。 「あなたは…確か、ユリア様?」 祭壇らしき台の上に、リノアンは横たわっていた。その彼女を、ユリアが微笑みながら見つめている。 「ええ、ナーガの血族、リノアン…いいえ、ロプトの血族、フィーア」 「ろ・ぷ・と…ふぃーあ…?」 その二つの単語が、彼女の頭の中で何度も反響し始めた。 「私は…ふぃーあ…ろぷと…?」 頭を押さえながら、彼女は起き上がった。「フィーア」「ロプト」この二語で頭が割れそうだ。 「ユリア様。おそらく、自分の状態をわかっていないのでしょう。かつての私のように」 いつの間にか、ユリアの横にはナンナが立っている。黒い鎧と羽根飾りをまとって。 「その娘に、今の姿を、力を、自覚させてやるとよいでしょう。ふぉふぉふぉ…」 黒いローブの奇妙な老人がその逆側に侍っている。 老人の言葉が妙に気になって、リノアンはその部屋にあった鏡に自らの身を映した。 ターラの市長衣に似て異なる妖艶な衣が、彼女の魅力的な肢体を包んでいた。 輝く長髪、整った顔立ち、艶だった唇、赤い宝石のような双眸が、彼女の美しさを完璧なものに昇華させていた。 リノアンは一瞬にして自分の完璧な美貌に心奪われた。 私は、こんなにも美しい存在だったなんて…。 「あなたは美しい人です。そして、心に深い罪の意識を持っています。 でも、悩まないで。美しいのは罪ではありません。あなたに惹かれる者が、罪人なのです」 ユリアの涼やかな声によって、彼女の意識は以前と完全に変わってしまった。 「…そうなのですね。私が道を決められなかったのは、自分の美しさを守ろうと感じていたから。 こんな美しさを、誰かのものにしてしまうなんて…ましてや、人間なんかに…」 彼女が以前にそんなことを考えていたかは、誰にも、リノアン自身にも分からなかった。 だが、自分でそう言ったことにより、その思考は彼女の精神深くに一瞬で根を下ろしてしまった。 「ユリア様…。私に本当の心と、真の美しさを気付かせてくださった、誰よりも賢く美しいお方…。 『リノアン』という過去の名は、今の私にふさわしくありません。 今より私はロプトの僧侶、フィーア。この容姿、この魔力、すべてをあなたのためにお使い下さい」 彼女の赤い瞳が、色っぽく潤んだ。 「そうかナンナ、またアグストリアの騎士として戦ってくれるのか。 まったく、俺としてはありがたい限りだ。 クロスナイツとか名前は立派だが、今のこの国にはごくつぶしの雑魚が多すぎるんでな」 前線になっている出城の一室で、アグストリア王アレスはどっかと椅子に座っていた。 ナンナは彼の前にひざまずき、その言葉を聞いていた。 「ちょ、ちょっと陛下、私の妹の前ですよ。国王としてもうちょっと口調を…」 ナンナの兄で、アレスの副官であるデルムッドの言葉にも、彼は耳を貸す様子がない。 もともと傭兵あがりのためあまり行儀が良くなく、そのため一部貴族の間では 「傭兵王」「成り上がり」と陰口を叩かれているのだが、本人は気にする風もない。 「やかましい。もともと騎士は戦士だ。戦の役に立たん戦士なんか山賊以下だ」 「そ、それはいくらなんでも…」 「ああ、すまん…。お前の事を言ったわけじゃないんだ」 「それって、私が戦の役に立たないってことじゃないですか!」 「馬鹿言うな、お前の統率力は俺の片腕として十分だ。足りないのは腕前だけだ」 「ちょっとお!」 堂々巡りになりつつある2人の漫才に、ナンナは一言あっさりと言った。 「では、私はオーガヒル方面の兵を率いればいいのですね」 毒気を抜かれた男ふたりは、思わずぽかんとしてしまった。 「あ、ああそうだ」 「が、がんばれよ」 それだけ聞くとナンナは立ち上がって一礼した。 「はっ、お任せ下さい。では」 靴音を響かせて去っていくナンナの足音を聞きながら、二人はまだ呆然としていた。 「デルムッド。今日のナンナ…、いつもと違う気がしないか?」 「確かに」 兄として心配そうな顔をしながら、デルムッドは言った。 「ひょっとすると、アレス様が騎士らしくない言い寄り方をするから…」 「ふ、ふざけるな!俺はいつでも正々堂々としている!」 「それが妹の逆鱗に触れて…」 「お、お前、その言い方は何だ。仮にも俺の義兄だろうが!」 「まだ妹を差し上げるとは言っていません!」 二人がギャラリーのいない漫才第二ラウンドを始めている間に、ナンナは馬を駆って錬兵場へ向かっていた。 「愚かね…。私の変化に気付かないなんて。しょせん人間なんてあんなものだわ」 アレスらの前では青かった彼女の瞳が、一瞬不気味な光を放って赤く染まった。 かつて心揺れていたアレスへの想いは、ナンナ、もとい魔将アインスの心には残っていない。 彼女は錬兵場に着くと、早速自分の指揮下に入る兵の前に立った。 アインスが生まれ持ったカリスマ性と、闇の洗礼によって得た魅力によって1部隊を統率するまでには ものの数時間とかからなかった。 彼女の統率力はたちまち多くの軍団を取り込み、精強の軍に作り変えていく。 ほどなく彼女はオーガヒル方面の総指揮官となり、大部隊の指揮を任されるに至る。 彼女の手足のように動き、死ねと言われれば死に、謀反せよと言われれば叛く大軍団の指揮を…。 場所は変わって、レンスター・トラキア国境の、とある一集落。 美男美女で知られる20歳前後の姉と弟が、仕事であろうか、野山をうろついていた。 「…であんた、あの子と付き合わないわけ?色っぽい美人じゃん。あたし好きだよ、ああいう子」 「いや、俺はダメなんだ。もっと清らかで、かつキレイな子が…」 「そんなの、そうそういるわけないわよ…」 そんな話をしていた姉弟の目が、何かに釘付けになった。 いつの間に現れたのであろうか、彼らの視線の先に立っていたのはリノアンだった。 いや、もうロプトの魔将フィーアと言った方がいいだろう。 妖しい気をうっすらとまといながら、彼女は姉弟の方へとゆっくり歩いてきた。 この時、同じ女性を見ていたはずの二人は、妖気の中に違う面影を見ていた。 姉は、彼女があこがれているような、色っぽい魅力の女性を。 弟は、彼にとって究極の理想である、清らかな輝きの女性を。 「私から、目を離せないんですね。私も、あなた達のような人、好みです…」 ひとつの言葉が、全く違うトーンで二人の耳に入り、それぞれの音で心をとろかした。 二人の前に立ったフィーアは、その清らかな指で二人の顔をなでた。 全く感じたことのない、天使のような穢れない感触。二人は気の昂ぶるあまり、全身が熱く、とけるようだった。 「私達の相性、最高のようですね。知り合えたことを、嬉しく思います…」 彼女はその潤んだ唇を、弟の頬にあてた。続いて、姉の頬に。 ほんのりと香る甘い匂いと、彼女の唇の柔らかく、心地よい、ほんの一瞬の感覚に… 魂が天に飛ぶような興奮を覚え、姉弟の意思は消滅した。 上気してうつろになった瞳で、二人はぼんやりと、フィーアをただ見つめるだけ。 「ふふ、こんなにも上々の下僕に会えるなんて。 さあ、あなた達に使命を与えまます。 トラキア軍のところへ行き、あのふもとの村が山賊の本拠であると密告してください。 その後はあの村がさも山賊の隠れ家であるよう偽装すること」 二人はフィーアの示す方をぼんやりした目で見つめた。 彼らの家のある村が、そこに見えた。 「わかりました…」 「今すぐ…向かいます」 ぼんやりして見えながら、命令を受けた二人の行動は驚くほど速かった。 素早くレンスターの方角へと走り去っていく二人を見ながら、フィーアはくすくすと笑い続けた。 「かわいい人たち…こんなことで私の虜になってしまうなんて。 この美しい私は私だけのもの。誰にもあげたりはしないというのに。 でも、いいものね…。私の楽しみ、そしてあの方のために、この美貌は活用しないと。 さあ、村の中でも多少細工をしておこうかしら。好みのタイプがいるかもしれないし」 彼女の心にあった葛藤は、新たに目覚めた自己陶酔と共に消え去ってしまった。 ユリアの魔力により、ふたりの少女の心は「救われ」、彼女らは新たな存在として生まれ変わった。 代償として、彼女らは絶対の忠誠をユリアに捧げる。 いかなる厳しい任務にも、たとえかつての仲間を裏切ろうとも、魔力に染まった彼女らの魂は揺るがない。 だが、それが「逃避」でしかないと、いずれ彼女らは気付くのであろうか… (コメント by マルチくうねる)こちらは、磯辺巻き様から投稿していただいた小説です。 「闇の皇女」シリーズの、加筆修正版。この「迷いの救い手」に関しては、 全く新しく書き起こされたストーリーです。 愛はときに苦しいもの。細やかな心を持つ女性は、より一層 つらい思いを深めるのかもしれません。ふたりとも、愛すればこそ…。 この小説と関連したイラストを、 魔道美術隊にて展示しています。 磯辺巻きさんの作品、ぜひ一緒にご覧になってください。 感想を伝えたいという方は、磯辺巻きさんあてに メールでお願いします。(ぺこり) |