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絶望の黒
イザーク・イード間の山中に存在する孤村。 宵闇に紛れて、顔までフードですっぽりと隠した黒衣の一団がそこをぐるりと取り囲んでいた。 その中でも上質のマントとフードをまとった、他の者に比べて小柄な姿が、どうやら一団の指揮官らしい。 「あの村なのだな」 指揮官の声は少年の…いや、女性の低い声。それも意識して低くしようとしている感がある。 それに応えて、副官と思しきひとりの暗黒魔道士が応えた。 「はい。うかつでした、数人の村人に我々の神殿を目撃された可能性があります」 「構わん。いずれにしろ制圧する予定だった」 「包囲はすでに完了しております。用心棒はいるようですが、大した相手ではありません。しばしお待ちを」 用心棒と聞いて、指揮官が反応した。 「…待て。その用心棒、私がやる。お前達は村人の捕獲を優先しろ」 「はっ」 副官はそうなると予想していたのか、特に反論する様子も驚く様子も見せなかった。 指揮官は、ばさりと厚手のマントを脱ぎ捨ると、突入部隊もろとも村の中に飛び込んだ。 ほとんど物音を立てずに、一団はそれぞれ家屋に飛び込むとその住人を捕え始めた。 全く無駄のない動きによって村人達は次々と縛られ、気を失って運び出されていく。 わずかな空気の異変をかぎつけて、自警の村人を引き連れた用心棒が駆けつけたのは、村の半分が制圧されてからだった。 しかも、その敵は明らかに不要な殺気をふりまいていた。 「む、気づいた時にはもう遅いということか…」 中年のイザーク人剣客は静かに言った。 「どうやら、そなたがわしの始末役のようだな。 …同胞、しかもそなたのような若い娘が手を汚すことになるとは。いまだ、平和な世からはほど遠いか」 闇の中で剣客が見抜いたとおり、指揮官はイザーク人の少女であった。 長身の多いイザーク女性としてはやや小柄とはいえ、彼女のつややかな黒髪がそれを物語っている。 だが奇妙なことに、黒または焦茶色のはずの瞳は赤く染まり、闇の中でかすかに光を放っている。 「魔性の力を秘めた瞳、か…。ぬしのような愛らしい娘が、忌まわしい邪教に堕ちるとは。嘆かわしい」 いつの間にか、彼の手には長剣が握られている。 「ごたくは無用、私はもはやイザーク人ではない。それよりお前、なかなかの腕のようだ…かかってこい」 かすかに彼女の口元に笑みが浮かんだ。 魔道書を取り出すと、いつでも魔法を使えるように構えを取り、相手の出方をうかがう。 対する剣客も、どのような魔法にも反応できるよう隙のない構えを取っている。 先を制したのは剣客だった。彼女が魔法を放つより速く懐に飛び込むと、情け容赦なく剣を振り下ろした。 肩や足を露出したその服は、剣士にとって「ここを狙え」と言っているようなもの。 さらに彼女はさほど素早くない。そう見切って、一太刀での勝負を挑んだのだ。案の定、よけ切れない。 鈍い音がした。 だが、それは刃物が肉を切った音ではなく、硬いものが勢いよくぶつかったような音だった。 なんと刃は彼女の体を切り裂くどころか、皮膚にアザすらつけず、震えて止まっていたのだった。 「バカな…。我が渾身の一撃を生身に受けたというのに」 動揺する剣士を見て、少女はにやりと笑った。 「フフ、確かに常人よりも実に強力な一太刀ね…。だが、私にとっては冗談にしかならないな。 さて、楽しませてくれたお礼に、お前に地獄を見せてやろう」 彼女は魔道書に手を重ねると、素早く呪文を唱えた。 たちまち書物から赤い気がほとばしり、剣客を包み込む。 「ぬ、ぐおお…」 恐怖に目を見開き、目の前の何かを振り払おうとし、そのまま彼は白目をむいて倒れた。 頼みの用心棒が敗れたことに、近くにいた村人がいっせいに矢を放った。 至近距離とはいえ、闇夜に素人の矢などなかなか当たるものではない。 当たったとしても、彼らの前に立っている少女の白い肌に傷ひとつつけることはできないのだ。 「分かったよ。お前達も、見たいんだな?私の魔法『ヘル』による、地獄の幻影を…な」 その言葉が終わる頃には、村人達は赤い光に包まれ、もがき苦しみ、のた打ち回っていた。 「フッ、お前達の貧弱な精神では、気を失うまでに相当の苦痛を味わうことになるだろうな…」 吐き捨てるように言った彼女の後ろに、副官がいつの間にかひざまずいていた。 「ツェーン様。村の制圧、あらかた終わりました」 「ご苦労。大した人数ではないだろう。 ひとまず全員を神殿に運び、あとはフィーアとズィーベンに任せるように」 「はっ」 「私は先に戻る。あとは任せた」 コツ、コツ、コツ… イード神殿の暗く長い廊下。響くのは、彼女のブーツの音だけ。 ガチャリ。自室に入ると、彼女は鏡を覗き込んだ。映っているのは長い黒髪の女。 纏っているのは、肩や足を出し、スタイルを際立たせた丈の短い黒ワンピースに、薄い生地の黒マント。 頬に炎を模した紋様を描き、目元に紅をさして目つきを鋭くしようとしているが、まだ少女らしさを残した顔立ち。 瞳は、鮮血のような色。人間であることを捨てた証だ。 鏡に映る彼女の鋭い表情。それが、不意に変わった。愛らしさを残した、柔らかい笑みに。 「セリス様」 声も、先ほどまでの低く抑えた声ではない。表情に合った柔和な声だ。 「セリス様。わたしのこと…覚えてますか?わたしの今の名前は、マナじゃなく…暗黒司祭ツェーン。 ロプト教団のナンバー3にして、セリス様の敵なの。 今日はわたし、罪もない村を襲撃して、村人を全員捕虜にしてきました。 彼らは全員、記憶を消されるか、ロプト教徒として教育されるでしょう。 こうやって日々、少しずつ少しずつ、セリス様の敵は増えていってるんです…」 表情と声が全く変わらぬまま、彼女の手に青黒い炎が燃え盛った。 「セリス様。今のわたし、魅力的ですよね。わたし、生まれ変わったんです。 魔力、役立たずの解放軍時代となんか比べ物になりません。 それにこの身体…絹のように柔らかく、それでいて鋼の剣もはね返す力があるんです。 服装も大胆だし、肌は真っ白だし…顔は、もともと悪い方じゃないですよね。 今のわたしなら、ラナ様よりも魅力を感じるんじゃないですか?セリス様…」 くすっと笑みをもらし、鏡に向かって彼女は続けた。 「どうしてわたしがこんなに素敵になったか、話してあげますね、セリス様…。 聖戦が終わった直後。わたしは、絶望の底にいました。 わたし、セリス様のことが好きでした。小さな頃からずっと。 分かってました。一平民にすぎないわたしが、王家の血を引くお方に恋するなど、身分違いもはなはだしいって。 でも、いつもお側に仕えていたかった。セリス様のお役に立ちたくて僧侶になったんです。 回復役がいなければ、あの小さな解放軍は成り立ちませんでしたよね。 そんなわたしに、セリス様も素敵な笑顔で応えてくれたし、嬉しかった。 でも、解放軍が大きくなり、人材不足が過去のことになっていって、 それと同時に自分の存在価値がなくなっていったことに、わたし気付いてました。 セリス様は以前と同じように笑いかけてくれたけど…、 その心の内では、戦力にもならない平民のわたしをどう思ってたんですか? 聖戦終了後、セリス様は即位してすぐ結婚してしまいましたね。 でもわたしには、感謝の証として人づてに大金が与えられただけ。 お話する機会なんて、もう二度とこなかった。 あの時はつらかったし、悔しかった。わたしは結局、軍勢が揃うまでの場つなぎだったんだ、って。 故郷イザークに帰っても、することなんてありませんでした。 従軍を希望する僧侶は軍隊に残ればいい。 でもセリス様のいない軍隊に残る理由なんてなかった。 こんな世界に神様なんて、元々いるわけないと思ってたし…。 わたしに価値なんてないように思える毎日でした。 あの人が来るまでは…。 聖戦から一年ほど過ぎたある日、わたしの家に意外な来客がありました。 「久しぶりですね、マナ」 透き通った声。間違えるはずがありませんでした。彼女だ。 あわてて外に飛び出すと、そこにいたのはやっぱり彼女でした。 「ユリア…無事だったのね!」 解放軍では、わたしが一番彼女と親しかったんです。 別に彼女が人を避けていたわけではないけれど、口数が少なく神秘的な彼女は みんなにとって近寄りにくかったんでしょうね。気兼ねなく話してたのはわたしだけでした。 わたしが必要なくなっていく一方で、彼女はその魔力から回復の要となっていきました。 けれど、わたし達は変わらず友達でした。彼女がいなくなった時はずっと取り乱していたんですよ。 わたしは彼女をさっそく家に招き入れました。 両親はずっと前に亡くなっていたし、兄ディムナは兵役に出ていた。話し相手が欲しかったんです。 世間話をひとしきり話したところで、彼女が言いました。 「噂で聞いたのですが…セリス様は結婚なさったのですね」 ずきんと来る話題でした。わたし達両方にとって。 知ってるかもしれませんが、彼女もセリス様のことを好いていたんです。 いつも感情を表さない彼女でしたけど、セリス様に関しては熱狂的とも言えるほどでした。 でも、運命が彼女を許しませんでした。行方不明になる前に、レヴィン様が彼女に真実を伝えたんです。 彼女が姿を消したのは、その直後でした。 お互い触れられたくない傷の痛みに、わたしはうつむく事しかできませんでした。 長い沈黙の後、やがて彼女はささやくように話し始めました。心を囚えるような甘い響きで。 「捕えられた私は、聖戦でセリス様に見捨てられたとか。あなたも、彼に捨てられたのですね」 やや間を置いて、彼女は言いました。冷たく、鋭い一言。 「…なんて冷たい男」 どくん。わたしの胸が震えた。 思わず顔を上げると、彼女と目が合いました。 暗く濁った、赤い瞳。心臓が、急に激しく動悸を始めました。 彼女が言いました。 「私の心の中で、もはやセリスという名は意味を為しません。なんでもない名前。 けれどマナ、あなたの心にはまだその名が重くのしかかり、希望を失わせている。 そんなあなたに、力と、美しさと、生きる希望を与えたいんです。…あなたにその気さえあれば」 どくん。ますます、胸が高鳴りました。 「…復讐、しませんか?」 …いいえ、駄目。そんなことは駄目よ。 そう言おうと口を開いたが、声が出ない。彼女はわたしにゆっくり近づきながら、続けました。 「怖いのですね…大丈夫ですよ。ためらわないで。だって、私達…」 ここで彼女は一度言葉を切った。彼女の瞳が間近にありました。そして、耳元に囁き声。 「私達…お友達じゃない」 その一言でわたしの心に、かっと熱い炎が灯りました。 魅力的な彼女が、わたしを必要としてくれてる。 不実なあいつのようじゃなく。 好き。好き。目の前にいる彼女が好き。永遠の忠誠を捧げたいくらい。 好き。憎い。あの男が憎い。好きだけど憎い。 彼女と一緒にいたい。誰よりも強くなって。彼女をずっと支えられるくらいに。 あいつを後悔させたい。美しいわたしを目の当たりにさせて。仕留めたい。この手で。 「そう。その心です…。敵意は人を奮い立たせ、新たな魂を燃やす原動力となる。 もっと憎んで、マナ。 その心が強ければ強いほど、あなたはより高い次元へ生まれ変わることができるのですから…」 「わかって、る…もう、何も考え、られない。頭が、胸が、燃える、みたい」 眼がギラギラしてるのが、自分でもわかる。きっと今のわたし、すごく怖い顔をしてる。 わたしは頭がかっかとしたまま、ロプトの神殿に誘われました。 まずわたしを迎えたのは、ターラ市長として人間の世界に潜伏している魔将フィーア。 「かわいらしい顔立ちですね。…ちょっと、ごめんね」 彼女はそう言うなりわたしの頬にキス。 「…何の、つもり、なの?」 何の気なしに言ったつもりだったけど、眼が、口が自然にきつくなってました。 「すみません、突然。…怒ってます?」 後になって知ったけど、それは彼女得意の魅了術のひとつ。 効く効かないは人によって大きく違い、わたしとは相性が良くなかったようです。 「彼女は新しい魔将候補です。ズィーベンとエルフを呼んで下さい、フィーア」 「かしこまりました、ユリア様」 次に出てきたのは、緑髪の僧侶姉妹。 ただしその衣装から、ブラギに背いた破戒僧だとすぐに分かりました。 「彼女…。憎悪の炎が灯ったいい目をしていますね。ロプトウス様の喜ぶ感情です」 白い衣の僧侶ズィーベンがそう言いました。 「ふふっ…、もっと憎んでよ。おかしくなるくらい。そうすればあたしが生まれ変わらしたげるから」 赤い衣の巫女エルフがそう言いました。 そして彼女らが杖を掲げると同時に、わたしの頭は燃え上がりそうになり、何も分からなくなりました。 エルフの狂乱の魔法がわたしを狂わせ、何もかも壊したくさせる。 ズィーベンの静かな言葉がわたしを惹きつけ、ロプトの教義を脳内にささやいていく。 「憎んじゃえ。壊しちゃえ。強い人は何をしたっていいのよ。ロプトウスが許してくれる」 「憎しみは力。人が立ち上がる力となります。心が強いほど、ロプトウスの加護も大きくなるのです」 そしてユリア様の存在が、わたしにとって確かなものとして大きくなっていく。 「わたしはロプト、ロプトはわたし…さあ、わたしに力を貸して。全てを捧げて」 3人の言葉に頭だけじゃなく、体までもが熱くなっていき…全身が燃え上がった。 わたしの感情が負の炎として青黒く燃え上がったんです。 その炎によって、わたしの着ていた質素な白い服がどす黒く染まりました。 「力が、湧いて、くる…これが、ロプトの、祝福…!」 そういうことなんです、セリス様」 鏡の中で、かつてマナだった魔将ツェーンが微笑んだ。 「無力にも黒くなったブラギの僧服を焼き捨てて、わたしが選んだのがこの服。 刺激的ですよね?ドキッとして…思わず誘われてしまうでしょう? そんなあなたを拒み、焼き尽くす。身も心も。 わたしを見向きもしなくなったセリス様を、後悔と苦痛で悶えさせてやるのが、わたしの願い… その日のあなたの苦痛を増やすために、わたしは動いているの。 自分のものになった世界が覆り、しかもそれがかつて捨てた者たちのしわざだとしたら… その変わりようが大きければ大きいほど、セリス様への衝撃も大きくなるでしょ?ふふふ…」 手のひらで踊る暗黒の炎が、動きの激しさを増した。 なおも無邪気な表情のまま、マナが鏡に向かって話し続けようとしたとき。 「…誰だ」 少女の顔が、急に冷徹な魔道士のそれへと変わった。 部屋の外で魔力の流れが変わったのは、扉の外に人が立ったしるしだ。 「マンフロイ大司教がお呼びです」 「すぐに向かう」 部屋に張られた魔力ゆえ、彼女のつぶやきが外に漏れる心配はない。 個の重視を説くロプト教においては、当時としては珍しいプライバシー保護の概念も存在する。 強力な魔力を駆使すれば不可能なことではないため、魔法で守る必要はあるが ツェーンほどの者の部屋であれば、たとえ大司教の魔力でも中をうかがうことはできない。 イード神殿は階層ごとに祭祀層、居住区層などに分かれている。 共有地区に当たる会議室で、マンフロイは古文書を読んでいた。 「マンフロイ大司教。暗黒司祭ツェーン、ただいま参上しました」 マンフロイは古文書を閉じると、ゆっくりと顔を上げた。 「ご苦労。こたびも見事に任務を果たしたようじゃな。 さて、そなたに問いたいことがある。なに、簡単なことなのじゃがな。 我らがロプト教の核となる教えとは、何かな?」 ツェーンは即座にすらすらと答えた。 「ひとつの神、ひとつの王、ひとつの生命。同じ目的を持つ一団であろうと、すべては個にして独立。 難に臨みて他は定まらざるもの、頼るるは己のみ。ロプトの教えに集うとも個は個。己を高め続けよ」 今まで幾度となく聞かれた問いだが、不愉快ではない。数ヶ月前までは敵方であったのだから当然のこと。 むしろその力強い教えを声に出すたびに、自分が強くなったような感覚を覚えるのだ。 「では、我らの敵であるブラギ教の教えを聞かせてもらおうか」 ツェーンは意外さを覚えた。これは珍しいことだ。だが、僧侶であった彼女はそれを覚えていた。 「神の祝福を受けし者達よ、前で導く者を助け、後ろに従う者を軽んぜず、隣人を信じ、和を重んじよ。 苦難において個は弱きもの。神を、導き手を、友を、後輩を信じ疑うことなかれ、さすれば大いなる力とならん」 言いながら彼女は妙な不愉快さを感じた。 無償で信じ続けることが全て益につながると思うのか。愚かすぎる。 かつてこの言葉をずっと信じ続けていた自分が、ひどく滑稽に思えた。 「ふぉふぉふぉ…さすがは元ブラギ僧よ」 「ご冗談はおやめ下さい。今の私はロプトの十二魔将、ツェーンにございます」 むっとしてツェーンは言った。 「ふ、それは分かっておる。だがの、ブラギの教えなどを覚えておく必要もあるまい?」 「単に忌々しい記憶が残っていただけ…。いえ、むしろ力を増すための要素です。 我が力の根源は、光の世界で感じた空虚感と憎悪。怒りと憎しみが私を強くするのです」 そう。「光」とやらが自分に与えてくれたものはひとつもない。 「なるほどな…。だが、その感情がおぬしを不安定にしていることも分かっておろう?」 そうだ。確かにそれは本当だ。 ツェーンは潜入や情報収集などの任務を行ったことがない。 「光」の世界に、いやセリスの治める世界に背を向け、敵対する行為を行っている間、 彼女の心は暗い悦びで満たされ、時に歯止めの効かないほどになってしまうからだ。 殺意を抱きながらそれを隠し、密かに任務をこなすには、短気すぎるし敵意が表に出すぎる。 と言うより…セリスの統治下で幸せそうな人間を見るのが耐えられないのだ。 「魔法で強化されたそなたの肉体は、通常の人間をはるかに超える生命力を備えておる。 今後数百年、場合によっては千年近く、大司教としてロプトの民を導くことになるのだ。 すぐに冷静さを失うようでは、危ういぞ」 「…はい」 「ユリア様の部屋へ行き、調整を受けるがよい。 そなたら新生十二魔将は、わしの手では強化できぬのでな。解せぬことじゃが…」 「まったく、口うるさいものだな…」 ツェーンは歩きながらぶつぶつ言った。 ロプトの魔術を用いれば、肉体の老化を格段に遅らせることができるという。 その秘術も及ばぬほどに年老いたマンフロイが、一体何百年の時を生きてきたのかは分からない。 確かなのは、次第に数を増やしている現魔将の性質が、過去の十二魔将と全く違うということ。 そして過去をよく知るマンフロイが、それをあまり快く思っていないということだ。 「年寄りとは厄介なものだ…いつまでも私を人間扱いか」 不機嫌な感情を隠そうともせずつぶやいているうちに、彼女はユリアの居室の前に着いていた。 扉に触れると、中にいるユリアが「気」を感じ取り、外にいる者が誰だかを把握する。 そしてユリアの気分や状況に応じて、入室の可否が扉と手を通じ、外にいる者の脳内に伝わる。 普段ならそうなるはずだった。 だがこの時、扉に触れるよりも速く、強烈な思念がツェーンの脳髄を揺さぶった。 「さあ…入るがいいわ」 「…なっ!?」 頭の中に響き渡る、限りなく甘い声。 それは「許可」ではなく、抗うことのできない「命令」だった。 気がつくとツェーンは、ユリアの部屋の中にいた。ぼんやりする自分の頭に苛立ちながら。 「ククク…誰かと思えば、ツェーンだったのですね。いらっしゃい、いいところに来てくれて…」 「ゆ…ユリア、さま…?」 目の前に立っているのは確かにユリアだ。だが、違う。 銀色の影を帯びた可憐さに、妖しい闇色の美しさをちりばめた少女。それが、ロプトの指導者ユリア。 だが今目の前にいる少女は、美しく、妖艶で、そして恐ろしい。 体内から発せられるオーラによるものか、風があるかのように長い髪が揺れている。 暗紫色の気が彼女の全身を包み、怖ろしくも美しく輝かせている。 その赤い瞳はぼんやりとした光を放ち、一度見ればもう絶対に目を離すことはできない。 闇の洗礼を受けたツェーンが畏怖し、魅せられてしまうほど、今のユリアからは危険な魔力があふれ出ていた。 「ウフフフ。一瞬目にしただけで、虜になりそうでしょう?ねえ、ツェーン」 「ユリア様…い、一体、何を…?」 必死で力を振り絞って問おうとして、ユリアの胸にしっかりと抱かれている黒く大きな書物に、ツェーンは気付いた。 「ああ、気付きましたか…。そう、私の、ロプトウスの書。 試しに普段と違う使い方をしてみた…読まずに、手に取ってみたの。そうしたら、こうなった…。 けれど…素敵。必死に苦痛と誘惑に耐えながら少しずつ読み進むのとは、比べ物にならない。 私に流れ込む力も、知識も、欲望も、ね…」 ユリアの眼が細まり、口の両端がつり上がった。 冷酷さと激しやすさで恐れられるツェーンが恐怖を覚えるような、それでいて正気を失いそうになるほど魅力的な笑み。 「ツェーン、もう私を『ユリア様』なんて呼ばないでくださいね。わたしはダークプリンセス。 暗黒神とひとつになる定めの、この世界で最も美しい乙女、ロプトユリア。 今からは私をロプト帝国の継承者、『皇女』と呼ぶのよ…。理解できますか」 「は、はい…皇女…。ロプト帝国の継承者、ユグドラルの正当な支配者、神の拠りしろ、誰よりも美しいロプトユリア様…」 ツェーンの口から抑揚のない言葉が、流れるように飛び出てきた。目は半ば閉じ、顔には覇気がない。 「フフフ、いい子…。でも、まだまだです。 これからもっと力を高め、私の下僕となる魔将を増やし、この大陸を…ひいては世界を私のものにするの。 ユリアからロプトユリアへ…そしてロプトウスへ、もっともっと進化する…」 片方の手でロプトウスの書を抱いたまま、ユリアはもう一方の手を伸ばし、手招きした。 「おいでツェーン。今度の魔将には意志を与えようと思っていたけれど… 私の下僕に、やはり意志なんていらないわ。 心と引き換えに、今より強大な力を注いであげますから、大人しく私の瞳を見なさい…」 まさか、マンフロイはこれを… ツェーンの心に疑念が浮かんだのは、ほんの一瞬だった。 赤く輝く宝玉のような瞳、青白く輝く細い指、薄紫色の髪に、彼女は完全に魅せられた。 何の抵抗もせずツェーンはユリアの瞳を覗きこんだ。 「ククク…下僕に秘密なんて必要ないの。 あなたの心の奥底まで見通して、魂を完全に消し去ってあげるね」 吸い込まれていく。敵意も怒りも、憎しみの対象さえも… 「人間の男を憎むのが戦いの理由…ウフフフ、くだらない…男などいくらでもいるのに…その男の名は…」 秘密さえも、「絶対な存在」たる彼女には読み取られてしまう。 彼女に逆らえる生命など、この世界には存在するまい。 しかも今の彼女はまだ不完全だという。100%の力を身につけたらどうなってしまうのか。 そんな至高の女神に、心を失ってでも仕えられるなら、自分は幸せだ… ツェーンはぼんやりとそんなことを考えていた。 …考えている?私の意志で。 ツェーンははっと気付いた。 ユリアの赤い瞳が見開かれ、凍りついたようになっている。 そこにさっきまでの圧倒的な支配力はない。 「男の名は…セ、リ、ス…」 目を見開いたままつぶやくと、ユリアの姿勢が不意に揺れた。 彼女は大きくよろめくと、黒塗りの大きな机に寄りかかるようにして崩れ落ちた。 彼女が取り落としそうになったロプトウスの書はその机に「偶然」引っかかり、床に落ちることもなくそのまま収まった。 「ゆ、ユリア様!」 ツェーンは慌ててユリアを助け起こした。 「…ツェーン。ありがとう」 ユリアの赤い瞳は、いつも通りの「狂気を内包した理性的な輝き」を取り戻していた。 「あなたの魂を覗いた瞬間、何かが見えました。わたしを支えていた、大事な何かが。 それが何だったのか、誰だったのか…思い出すことは、もうできない。 けれどそこから別のイメージが見えた。はっきりと。 ……遠い昔に見た、廃墟だったころのイード神殿。その壁に刻まれた、無数の無念、叫び…… あの声にならない声を、わたしは忘れるところでした。力と欲望の誘惑に負けて…」 うつむいたまま静かな声でユリアの姿が、今までになく弱々しく映った。 その細い体と柔らかな物腰の中に、圧倒的な力と絶対的な魅力を秘めた姫君。 それだけが、ツェーンの知る「闇の皇女」ユリアだったのだから。 だが、ツェーンが本当に瞠目したのは、ユリアの次の言葉だった。 「いずれわたしはロプトウスと融合し、神にならないといけない。 でも、今のわたしはまだ未熟…己の欲すらも抑えられないのだから。 ツェーン、これからもわたしを支えて」 あんな大きい力を、彼女は自分のものにしないといけないのか。 ならば、全力で彼女を助けよう。たとえ自分にできることなど皆無に等しいとしても。 ツェーンは無言で大きくうなずいた。 「ありがとう、ツェーン…」 ユリアがにこりと笑った。 その笑みを見た瞬間、今起こった全てのことは、ツェーンの記憶から消え失せてしまった。 「はっ…ユリア様、私はいったい…」 「冷静さが足りないとマンフロイから言われたのでしょう?精神に軽い改造を施しておきました。 一時しのぎの効果しかないでしょうけど…精神を抑えすぎては、力も発揮できなくなるから。 わたしの魔将に必要なのは、今の世界に対する不満、反発、敵意。あなたの心にある感情を、力に」 「はっ、かしこまりました。それでは」 一礼し退室するツェーン。去っていく彼女の背を見つめながら、ユリアはそっとつぶやいた。 「わたしはいずれ神となる存在。たとえあなたであろうと、弱みを見せることは許されない…」 (コメント by マルチくうねる)こちらは、磯辺巻き様から投稿していただいた小説です。 加筆修正された「闇ユリア」シリーズの話。今回はマナです。 リノアン、サフィ、ティナとは異なり、セリスへの思いに共通したものを持つ ツェーンことマナ。彼女がユリアを必要としているのと同じくらい、 もしかしたらそれ以上に、ユリアのほうがマナを必要としているのかもしれません。 彼女だけに見えるユリアの姿。マナは大きなカギを握る存在となるでしょう。 この小説と関連したイラストを、 魔道美術隊にて展示しています。 磯辺巻きさんの作品、ぜひ一緒にご覧になってください。 感想を伝えたいという方は、磯辺巻きさんあてに メールでお願いします。(ぺこり) |