バカ殿セリス様・外伝

バカ姫ユリア様!?(前編)


 それは、何気ない一言がきっかけだった。
 「ユリア…、ぼくに何かしてほしいこと、あるかな?」

 ぼくはルテキアで、この前の最高の一日の余韻にひたっていた。 あの日、トラキアの山頂でぼくはユリアを抱きしめ、 今までの間にずっと醸成させてきた想いを…思いきり、解放したのである。 その想いを精一杯受け止めてくれたユリア。 今や、ぼくたちの間には揺るぎ無い理解と信頼が成立していた。
 …と、ぼくは勝手に思っていたのだが。 どうやらぼくはまだ、ユリアという人間の心の深遠を、あなどっていたようである。

 「それで…。きみの事をもっと知りたいって、前にも言ったけど。 きみがして欲しいことを、聞きたいんだ。ぼくに、何をしてほしいかな…?」
 要は、ユリアの好みやしてほしいことを聞いて、好感度を上げる狙いだ。 本来は、自分でそれを調べて、それをユリアにしてあげた方がベターだろう。 だが、なにせあのユリアである。 不平不満は一切言わず、あらゆる状況を受け入れて最善を尽くし、 好き嫌いの感情も表さないユリア。その好みを先回りして予測するのは、 至難の業なのだ。彼女に直接質問したのは、次善の策だった。
 ユリアの透明な眼は中空を見据えて動かない。息音一つ聞こえない静寂。 真っ白な肌の上に美しい衣を羽織ったユリアは、動かないでいるとまるで 大理石の彫像に見える。これは、ユリアがじっくり考えている証拠なのだが… しばらく待っても、彼女はそのままだった。
 「…特に、思い当たりませんが…。」
 二分ほど経った後の、それがユリアの答えだった。
 「うーん…何でもいいんだけど。ここに一緒に行きたいとか、 こういうものが食べたいとか。これを買ってほしいとか…。」
 「…いえ、今のところ、不足のものはありません。」
 ユリアは、彼女の性格通りの答えを返した。決して、わがままは言わない。 ぼくは、作戦を間違えたと後悔した。
 「…セリス様は、どうですか?わたしにして欲しいことが、ありますか?」
 ぼくの困った顔を見て気を回したのか、逆にユリアが尋ねてきた。 その質問に、ぼくは…ぐっ、とたじろいだ。
 ユリアとしたいことなら…、山ほどあるのだ。一緒に食事をしたり、 手を繋いで歩いたり、…い、いや、それどころか…キスして、抱きしめて、 それから…。
 …でも…でもでも。純真なまなこでじっとぼくを見つめる可憐な少女を前にしては、 聞かせられるわけがないじゃないか…ぼくの真の欲望を。だけど、 せっかくの提案を無駄にするのももったいない。 ぼくは動揺を押さえつつ、早口で答えた。
 「えっと、すぐには思いつかないけど…、今度、きみに知らせるよ。 そうしたら、協力してくれると嬉しいな。」
 「はい、セリス様。わたしにできることでしたら、喜んで…。」
 何気なく発したこの言葉に、どれほどの重みが乗っていたのか。 当時のぼくには、知る由もなかった。



 二日ほど後。「好きだよ〜…ゆ〜り〜あ〜…」などと寝言を呟きつつ まどろんでいたぼくの眠りは、この上なく強力な手段で目覚めにとって代わられた。 いつもならば目を覚ましてもだるだるで、二度寝、三度寝を繰り返す ぼくであるが、今日だけは勝手が違ったのだ。夢と現の境をさまよう ぼくの耳に、飛びこんできたのは…。

 「起・き・て……☆」

 耳元に囁きかける、甘い声。そしてその後に、ふうっ、と熱を持った息が ぼくの耳に吹きかけられ、ぼくの背筋にぞくぞくっと電流が走った。
 「うおおぉぉぉっ!?」
 がばあっ、と跳ね起き、目をこすって左右をきょろきょろ見回す。 いまだ朦朧とした意識の中、ぼくの目に飛びこんできたのは…。
 「おはようございます、セリス様。よく眠れましたか?」
 ベッドの縁にちょこんと座り、上目遣いでこちらをじっと見つめる、 ユリアの姿だった。

 「ユ、ユリア…なんできみが…」
 ここにいるの、と言おうとして、ぼくは口をぱくぱくさせる。 もちろん、こんなことは初めてだ。扉に鍵はかけていないから 誰でも入れるけれど、今まで誰も起き抜けにここに入りはしなかった。
 ぼくが呆然としているのに構わず、ユリアはさらりと言葉の追撃を発動させる。
 「セリス様は、このようなことをしてほしかったのではありませんか?」
 さも当然と言わんばかりに、確信を持ってぼくに問う落ち着き払った ユリアの表情。ぼくの下心はお見通しだとでも言うのだろうか?
 ちょっと不安になりつつも、ぼくは正直に答えざるをえなかった。
 「う…、うん。」
 すでに精神の均衡が揺らいでいたぼくは、昨日までベッドの下にあった 一冊のノートが消えていることに気づかなかった。

 「セリス様。もしお時間があれば、奥の談話室に行きませんか?」
 朝食を終えたぼくのもとにてくてくと歩み寄ってきたユリア。彼女の誘いかけに、 ぼくの心を狂喜乱舞した。今まで、ユリアの側から一緒に何かをしようと 誘われたことはほとんどない。それだけに、嬉しさもひとしおである。
 ぼくのスケジュール帳を眺める。今日の項目にあった「レヴィンと軍議」という 文字に、ためらわず斜線を入れて消した。ユリアじきじきのお誘いを断る輩など、 人間とは言えまい。そう考えれば、スケジュールの優先順位は明らかである。
 「うん、じゃあこれから行こう。」
 背後からぎろりとこちらを睨むレヴィンの視線の圧力は、 無論ぼくになんの影響も与えなかった。

 さすがに王城は広く、目的の部屋までの道程はけっこう長い。 その廊下をぎこちなく歩くぼくだが、背後に音がしないので、つい 振り向いてしまう。すると、ぼくのすぐ後ろを、ユリアが一切の音を立てずに 穏やかに移動していた。足音はもちろん、衣擦れや息遣いの音も聞こえない。
 これまでも何度かこういう経験はあったが、やはり驚かされる。 ほんのちょっとした立ち居振る舞いや仕草から、ユリアの超一流の品格が にじみ出てくる。こんな人を呼び捨てにしている自分が、ひどく不遜に思えるのだ。
 …ところが。今日のユリアは、ちょっと様子が違った。
 「セリス様…、失礼します。」
 ぼくに追いついたユリアは右腕を出して、ぼくの左腕に絡めた。 そして、掌をしっかりと握り締めた。
 ぼくの心臓が強く響き始めた。…ユリアの側から、こんな風に手を握ったことは 今までに無い。ぼくの腕を自分のほうに引っ張るようにして 腕を組んだものだから、…何と言うか、その…、ぼくの腕に、 ユリアの身体の一部が押しつけられる格好になっていて。なおかつ、 ユリアの頬がぼくの肩に寄せられ、微かな感触がぼくをくすぐった。 ユリアのぬくもりやしなやかさが伝わって、ぼくは上気せずにはいられなかった。
 ぼくの内心の動揺をよそに、ユリアは体をぐっとこちらに寄せながら、 粛々と歩みを進めた。そして、談話室に着いたところで ぼくの前に回り、尋ねたのである。
 「いかがでしたか、セリス様?」
 ぼくは反応に困った。多分、手を繋いで歩いたことへの感想を求めているのだろう。 感触が心地良くて嬉しいな、というのが正直なところだけど、 それをそのまま口に出しては下品だと思われかねない。 かと言って憮然としていても、ユリアの好意を無にして傷つけるかもしれない。
 「うん…、よかったよ。」
 ぼくは笑ってごまかすことにした。…ユリアはいつも無表情だから、 その心中はいまひとつ分からないが…。

 部屋の中には応接用の机と椅子(幅広で柔かいから、ソファーと言うべきか)がある。 ユリアはぼくに椅子を勧めると、奥に何かを取りに行った。 部屋の家具は木製で精緻な細工が施され、壁には美しい絵画も飾られており、 厳かな雰囲気の部屋だ。
 ぼくがこんな場所に居合わせると、雰囲気に圧倒されて ガチガチになってしまうものだが、ユリアはまったく動じない。 ごく自然に歩き、奥の棚にある背の高いコップと容器を音も無く取り、 容器の中の液体をスムーズにコップに注いだ。 ユリアの生まれ持った気品が、伝統と格式に溢れる この場の雰囲気にとても良くマッチしている。
 「セリス様、飲み物をどうぞ。」
 そう言って、ユリアはジュースの入ったコップをぼくの机に置いた。 …が、コップはただ一つである。
 「ありがとう。でも…ユリアの分は、どうしたの?」
 尋ねると、答えの代わりにユリアは懐から奇妙なものを出してきた。 細い筒が2本…。どうやら、植物を加工したものらしい。 ぼくが不思議な顔をしていると、
 「これは、『ストロー』と言うのですよね?わたしが使った事はありませんが、 これを使って、一緒に飲みましょう。」
 さらりと説明をしたユリアは、小さな机を挟んでぼくの真向かいの椅子に座った。

 コップに満たされた黄色い液体の、その表面が、見る見るうちに下がっていく。 水面からは、二つの細い棒が突き出ていた。それらの棒の先端には、それぞれ…、 ぼくとユリアの唇が、吸い付いている。 コップの口は小さく、ストローもさほど長くない。 その結果、ぼくの目から見ると、現世に次のような極楽が実現するのだ。
 ぼくの目の前、文字通り目と鼻の先の距離に、ユリアの顔がある。 頬のみずみずしい肌の細かい角質の一つ一つまでが、 手に取るように分かる。ぼくの目は…すぐそばにある、 美しいユリアの瞳に引き寄せられる。ユリアの目は大きくぱっちりとしていて、 なかでも黒目(紫色だけど)は強い意思の輝きを秘めている。 その眼が、じっとぼくを見つめていた。 さらに、ユリアからのほんの微かな鼻息がぼくの口を優しくくすぐる。 ユリアの呼吸を感じられるなんて、そう滅多にあることではない。 …そして、そして。ジュースを飲むぼくの口は、ユリアの細い桜色の唇と 至近距離にあるのだ。
 ぼくは、自分の唇をちょっと前に進める欲望を抑えるのに 苦労しなければならなかった。

 「セリス様…」
 ストローから離した唇から出た言葉の語尾は上がり、 眼はこちらへの関心を露わにしている。こちらに感想を求めているのだ。
 「楽しかったよ、ありがとう。…よく、こんなものを手に入れてくれたね。」
 ストローを引きぬいて、ユリアに示す。 ちょっといたずら心が起きて、ぼくはその先をユリアの首筋に向ける。 きょとんとするユリアをそのままに、ぼくは再びストローを咥え、 ふぅっと息を吹きかけた。
 「…?セリス様、ストローはそのように使うものではないと思いますが…」
 ぼくの息が吹きかけられ、耳もとの髪がかすかに揺れたが、 ユリアは全く動じた様子を見せず…ぼくのお馬鹿な行動に冷静なツッコミを入れた。
 「ごめん…でも、…どんな気持ちだった…?」
 「…少し、くすぐったかったです。」
 ユリアはそれでも表情を崩さず、平然と答える。それどころか…。
 「では、わたしも…」
 なんと、彼女もストローを咥え、ぼくの頬にそれを向ける。そして… ふうっと、熱い息を吹きかけたのだ。
 「うわわわわっっ」
 その刺激は、到底ぼくに耐え得るものではなかった。 生暖かく柔かく、とてつもなくやさしい空気の振動は、 ぼくの魂を根底から揺さぶった。背筋がぞくぞくし、上半身がびくびくっと痙攣する。
 「セリス様、いかがでしたか?」
 ユリアの言葉に、ぼくは目を宙にさ迷わせつつ、うめくしかなかった。
 「す、すごいよ、ユリア……。」


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