バカ殿セリス様・華麗なる日々

第8章・想いを幸せに(後編)


 ぼくは、ゆっくりとまぶたを上げていく。
 しばらくの間目を閉じて、闇に慣れていたせいか、目の前の光景がとても眩しい。 …いや、違う。眩しいのは、この少女だ…。
 ぼやけて見えていたぼくの目が、すぐにはっきりと状況を映し出すようになる。 紫がかった銀の長髪は、とても滑らかで色つや良く輝いている。 すっかり見慣れた紫のローブも、ふわふわして着心地が良さそうだ。 …そして、その中にいる女の子。頭をぼくの胸にうずめ、 両腕はぼくの脇の下から後ろに伸び、手の平がぼくの背中を優しく抱いているのが感じられる。 こうしていると、いつもよりずっと小さく感じる。
 ユリアが、肩を、背中を、強く抱きしめられ、熱く脈打って震えている。
 ぼくの、腕の中で。

 この時点で、ぼくは初めて、自分がしたことを頭脳で認識した。 とてつもない不安が、胸に黒雲を広げていった。 二重の意味で、取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない…。
 いきなり抱きしめるだけでも、言語道断なのに、さらにとんでもないことを口走り。 …そして、最大の問題は、それがマジックシールドの呪文の途中であったことだった。
 ティニーは、術者の集中が乱れると危険だと言っていた。 その呪文を、敢えて危険を冒し、ユリアはぼくのために使ってくれたのだ。 だから、ユリアの魔術をしっかりと受けとめようと思っていたのに。 ぼくの方が、湧き上がる気持ちを抑えきれず、暴走させてしまったのだ。 これで魔術が失敗し、ユリアの精神が傷ついたら…、 その罪は、万死に値するものであろう。

 「ユリア…。」
 ぼくは、ゆっくりと腕を離し、へなへなと地面にひざまづいた。 そして、そのまま正座する体勢になった。すぐ目の前に、淡く青く光る六紡星形、 長いローブの裾とサンダル、そして白い…意外としっかりした足がある。 だけどそれらは、今のぼくの目に入らなかった。
 ぼくがじっと見ようとしたのは、ユリアの心。傷ついていないことを祈り、 赦しを、救いを乞った。
 「大丈夫、ユリア?…マジックシールドは危険だって知ってたけど…。 こんなことをして、本当にごめん…。」
 …そう言った後、恐る恐る顔を上げようとする。すると突然、目の前の足が後ろに下がった。 息を呑む気配とともに、「あっ…」という動揺した声がユリアから漏れる。
 顔を上げて数歩先を見ると…。そこには、両手の平で顔全体を覆い、 斜めに俯いて微かに肩を振るわせるユリアの姿があった。
 「見ないで…。」
 ユリアは、顔に被せた右手の人差し指と中指の間を少しだけ開ける。 その奥にある、熱に潤んだ瞳と、一瞬だけ目が合った。 次の瞬間、ユリアはまた指を閉じ、完全に顔を隠してしまった。
 やっぱり、ユリアの精神に影響が出てしまったのだろうか? 焦燥に駆られ、ぼくは立ち上がる。 一歩ユリアに近づいたところで、ユリアは顔を覆ったまま身体を横にそむけた。
 「大丈夫です…。魔法は成功しました…。」
 できるだけ自分を落ちつけようと努力しているのが分かる、そんな声色で、 ユリアは告げる。よかった…。ぼくは、大きく胸をなで下ろした。 そして、それに続いたのは、聞いたこともない声だった。
 「ですから今は、わたしを見ないでください…。恥ずかしい…。」
 消え入りそうな、でも震えて湿った、つやっぽい声。 よく見ると、普段は色白なユリアなのに、手で覆い切れなかった耳は、 湯気を上げそうなほど真っ赤になっている。
 ぼくはもう、引き返せないところまで来てしまった事を知った。

 ぼくは、なんて恐れ多いことをしてしまったのだろうか? こういう事に関しては汚れを知らない(だろう)ユリアに、 いきなりこんなに激しい形で…「告白」してしまったなんて。
 もう、「冗談だよ」とかのごまかしは効かないだろう。 何よりも、今のユリアの態度が、ぼくの気持ちを知られてしまったことを如実に物語っていた。
 もはや、退路は無い。ならば、ぼくにできる事は、自分の事をできるだけ伝えて、 ユリアに判断してもらうことだけだ。ぼくは、あらためて覚悟を決めた。

 …ぼくとユリアは互いに金縛り状態にあった。 ユリアは、恥ずかしさと戸惑いを少しも隠せず、ただ顔を伏せるばかりだった。 ただ、そんな中でも、決して逃げ出さなかったのは、 ぼくへの思いやりであり、ユリアの強さでもあっただろう。
 ぼくの方も、そんなユリアを横目で見ていることしかできなかった。 今、ユリアに近づいたり、見つめたり、話し掛けたりしても、 ますます混乱させてしまうだけだろうから。
 そうして、沈黙のまま、時は過ぎて行く。
 少しずつ、少しずつ。ユリアが落ち着きを取り戻していくのが分かった。 肩の震えが弱くなり…収まり…。顔を包んだ手の隙間から、 ちら、ちらっとぼくの方を見るようになる。
 その様子を見て、ぼくはおずおずと、話を聞いてくれるように持ちかけた。 ユリアは、かなりの時間硬直したあと、被せた手ごと顔をこくんと縦にふった。
 手近にある、膝ほどの高さの岩に腰を下ろして、ぼくはユリアを待った。 ぼくの隣にも、一人が座れるほどのスペースはあったのだけど、 ユリアが座ったのはそこではなかった。一歩一歩、ゆっくりと歩み寄り、 その岩の反対側に、ぼくと背中合わせになる形でユリアは音も立てずに座った。
 「セリス様…。…ここで、話を聞いていいですか…?」
 落ちついた…でもまだ揺れのあるユリアの声が、背後から聞こえた。 ぼくの背中から、すぐ側にあるユリアの背中の温もりが伝わってきた。
 思えば、ユリアって純情だよね。真っ赤になった顔を必死で隠すさっきの仕草、 初なのが丸出しで、とってもいじらしかったな…。 それであわてるぼくも、似たようなものかも知れないけれど。
 「うん…。」
 ぼくは小さくうなずいて、深呼吸をした。

 「ぼくは、他の世界から来たんだ。戦争など全然無い、平和な国から…。 …こんなことを言っても、分からないだろうけど…。」
 眼下には、相変わらずの絶景が広がっている。 トラキアの、乾いて荒れた赤土。その向こうには、 緑豊かなミレトス地方。グランベルの地もかすかに見えた。
 「…だから、このユグドラルのことは、最初は他人事だったんだ。 ぼくが弱いのは、戦う覚悟が無いのは、そのせいだったんだよ。 いま、ぼくが見ているグランベル、シアルフィ…。 故郷だというけれど、ぼくにはそんな気持ちは無いんだ。 …少なくとも、そんなもののためには、ぼくは戦えない。」
 ぼくが、ずっと求めてきた「戦う理由」。ユグドラルの旅で見つけたもの。 今それが、しっかりとぼくの心にあった。
 「ぼくは、『自分にしかできないこと』をしたい。戦う力の無いぼくだけど、 きっと何かぼくの役目があると思う。解放軍の中で、ぼくができることが、きっと。 それは多分…、きみといることなんだ。」
 もう一度、深呼吸する。ユリアがぼくの話を聞いてくれているのか、 一瞬不安になったけど、ここで振り返ったら負けのような気がした。
 「戦いの無い国で、ずっと怠けて暮らしていたぼくが、 いきなりこんな厳しい世界に来てしまって。最初は辛かったよ。歩くのもしんどかった。 戦うなんて、とんでもないことだった。…でもね…。」
 ぼくの背中で、ユリアが話を聞いてくれているのを信じて、話を続ける。 …自分をさらけ出すことが、こんなに難しいとは思わなかった。 でも、ずっと考えてきたことを、必死で言葉にして紡ぎ出していく。 好きな人に、届くことを祈りながら。
 「ユリア、きみがいるから。ここで、ぼくが何とかやっていけたのは、 きみがそばにいてくれたからだよ。 きみと手をつないだから、砂漠を越えることができた。 きみが近くにいたから、イシュタルを追い返すことができた。 きみが励ましてくれたから、コープルを助けることができた。 …ありがとう。きみが、ぼくの力のもとなんだ。 きみのおかげで、こんなぼくでも成長できたと思う。」
 そこまで言って、急に切なさがこみ上げてきた。 心の中のユリアの瞳を見つめて訴えるぼくの声が、揺れて上ずる。
 「…だから、最後のわがままなんて言わないでほしい。 ユリアは、きっとぼくが護るから…。いくらでも、わがままを言ってほしい。 きみと離れるなんて、いやだよ…!頑張れなくなってしまうよ…。」
 ありったけの思いを込めて、ぼくは告白した。

 「ユリア。ぼくの、恋人になってほしい…!」

 ぼくは、充足感と緊張を半分ずつ胸に積めこんで、息をついた。
 やるだけのことは、やった。あとは、ユリアの気持ち次第だ。 人事を尽くして天命を待つ…、そんな気持ちだった。 今、ユリアはどんな気持ちでいるのだろうか?
 それからまた、しばらくの沈黙が落ちる。ぼくの視界内に、ユリアの姿は無い。
 だけど、ぼくはユリアを信じていた。ぼくの気持ちを、受け止めてくれる事を。 (受け入れて、ではないよ。…ぼくはそこまで傲慢じゃない。)
 どんなに長く待ったかなんて、ぼくにはどうでもよいことだった。

 「セリス様…。そこまで想っていただいて、本当にありがとうございます。」
 久しぶりに…、本当に久しぶりに聞いた気がする。 背後から響いたのは、優しく上品で、抑揚の少ない、いつものユリアの声だった。
 「セリス様が、ご自分のことをわたしに話してくれたのですから、 わたしも、自分のことをセリス様に知っていただこうと思います。」
 よく聞くと、いつもより一層、凛とした響きがある。平板な話し方の中に、 静謐な決意が込められているのを、ぼくは感じ取った。
 背後で、気配が動いた。砂を踏む物音が聞こえ、ユリアが立ち上がったのが感じられた。 そして、何か布がこすれるような音が聞こえる。…何をしているのだろうか?
 すると、ぼくの横に何かがそっと置かれた。思わず、ちらりと目をやる。 それは、絹でできた紫のユリアの上着だった。 ぼくが、怪訝な思いを拭い切れないでいる間に、さらにもう一つのものが置かれる。 それは…、薄い紫のスカートドレスを留める、腰の帯だった。
 ここに至って、ぼくは自分の背後で起こっている事実に気がついた。 ユリアは、服を脱いでいるのだ…!
 ぼくは慌てて、ユリアと正反対の方向を向いて直立不動となった。 心臓が再び早鐘を打ち、爆裂状態になったのは言うまでもない。 あらぬ想像が、ぼくの頭に広がりはじめる。
 …い、いや待て!さっきだって、「目を閉じて」と言ったけど、 あれはマジックシールドのためだったじゃないか。 頭を冷やすんだ、冷静に状況を分析しろ!…ぼくは、必死で自分にそう言い聞かせた。
 そんなぼくにさらに追い討ちをかけたのは、背後から誘惑するように響く、 ユリアの切ない声だった。

 「セリス様…。わたしの、胸を見てください…。」

 ぶっっ!!
 む、む、むむむむ、、、むね〜〜〜〜〜〜!!?
 この一撃で、何とか自我を保とうとしていたぼくの理性は爆発四散し、頭は一瞬で沸騰した。 鼻血も出た可能性が高いが、今のぼくにそれを確める余裕は無かった。
 ゆ、ユリアってば、なんて大胆な…!
 イケナイ妄想で脳髄をぎゅうぎゅう詰めに満たし、汗をだらだら流して ぼくはしばらく絶句した。
 だが、このまま凍っているわけにもいかない。 ユリアの望みに、答えなくてはならなかった。
 えーい、据え膳食わぬはなんとやら!ましてやユリアなら、どこに断る理由があろうか。 ぼくは腹をくくり、緩みまくって垂れ下がろうとする頬と鼻の下を全力で引き締めて、 ゆっくりと後ろを振り向いた。

 そこにあったのは、ぼくの予想を裏切るものだった。 いや、予想をはるかに上回る、神聖なものだった。
 ユリアの着ているのは、スカートドレス一枚。それも、両手から胸までの部分ははだけて、 肌を隠す役目を果たしていない。両胸の「肝心な部分」はユリアの手で押さえられていたから、 ぼくが見たのは真っ白な素肌だけだったけど、そこから上は完全に生まれたままの姿だった。
 …だけど、ぼくの変な欲望は吹き飛ばされていた。 ユリアの見せたいのは、そんな場所ではなかったのだ。
 ユリアの胸の中心…みぞおちに、金色に輝く竜の刻印があった。

 「わたし、まだ自分が分からないの…。」
 ユリアの肌と、聖なる刻印の美しさに見惚れ、絶句していたぼくを優しく見つめ、 ユリアはゆっくりと…、淋しそうに語りかけた。
 「わたしはこのことを、これまで誰にも言いませんでした。」
 その目は遠く、深く…孤独とともに生きてきた人のものだった。 表情は、あくまで穏やか。声も、静か。ユリアの気持ちの深さは、 真摯な眼が物語っていた。
 「なぜわたしに、このようなものがあるのかは分かりません。 ただ…、きっと、何かがあるのです。忘れてしまった、大切な何かが…。 わたしはいつか、このしるしの意味を知らなければならない…」
 …ぼくは、無意識のうちに悟っていた。
 まだ、このひとには届かないことを。
 「この前出会った、ユリウス皇子。あの人は、わたしを知っているようでした。 …それを感じたとき…。わたしもなぜか、昔からあの人を知っているような気がしたのです。 …でも、ユリウス皇子は、セリス様の敵…。」
 その声に、底知れぬ寒気を感じたのは、なぜだったのだろうか。
 「わたしも、セリス様とともに居たいのです。 でも、自信が持てません。わたしが、自分の事を知ったとき、ここにいられるのか…。
 そう思うと、今すぐには、セリス様の言う通りにはできないのです…。」

 …断られ…たか…。
 少なからず、ぼくは気落ちした。だけど、すぐに気を取り直す。
 ユリアは、とてつもない運命の影に怯えているのだ。 弱々しいぼくを信じろと言う方が、無理というものだろう。 それに、恋人にはなれなくても、ユリアはぼくの近くにいてくれた。 それだけで、十分有り難いことではないか…。
 そう思ったぼくに、ユリアはその上を行く言葉を与えてくれた。
 「…でも、わたしだけの都合で、いつまでもお待たせはできません。 セリス様のお気持ち、大切にしたいです。ですから…。 もう少し、少しだけ、待ってもらえますか? きっと、わたし、セリス様のお気持ちに、応え…」
 「いいよ、ユリア。無理しなくても。」
 ぼくを、暖かな目でじっと見つめるユリア。 だけどぼくはあえてにっこり笑い、気遣いの言葉を遮った。 それが、ぼくのただ一つのプライドだった。
 「きみの道は、きみが決めるものなんだ。ぼくのことなんか、構わないで。 きみが納得するまで、ずっと待っているから。」
 「セリス様…。」
 「…でも、もし良ければ、記憶が戻るまでだけでも、ぼくといてくれたら嬉しいな。 もう一度言うけど、ミレトスの買い物、一緒に行ってくれる?」
 「…はい、喜んで…。」
 そこまで話して、やっとユリアの頬が緩んだ。 それと同時に、山頂の寒い秋風がぼくたちを冷やかす。 ユリアは、口を手で押さえて…、小さなくしゃみをしてしまった。
 ぼくは、すぐに手元にあるユリアのローブを拾った。 気恥ずかしくて、明後日の方向を向きながらそれを渡した。
 「いつまでもそんな格好をしていちゃ風邪をひくよ。ほら、早くこれを着て。」
 「いやだ、わたしったら…。すみません、セリス様。」
 「ふふっ…。」
 明日もまた、ユリアとともにいられることを、ぼくは信じて疑わなかった。


 何よりも貴重なものが、ここにある。
 「好き」という想いが、伝わる幸せ。



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