バカ殿セリス様・華麗なる日々

第8章・想いを幸せに(中編)


 ここにいるのは、ぼくたち二人だけだった。少なくとも、ぼくにとっては。 今のぼくの世界には、他の人は入れなかった、 …仮にレヴィンや他の仲間達が、遠巻きにぼくたちに注目していたとしても。

 ♪別々に生きていると 心は通じないの?……

 突然、歌声がふつりと途切れた。  そこまで、ぼくたちの心にさまざまな情景を映し出し、スムーズに続いていた歌が、 不自然に中断した。ぴゅうと吹きつける秋風が、ユリアの髪と服を揺らした。
 「…これで終わり?」
 ちょっとぎこちなく、ぼくはたずねた。
 ユリアは青空を見上げていた眼をぼくの方に向け、そしてさらに下に落とした。 軽くため息をつく。
 「…このあとは、覚えていないの。」

 「覚えていないって…、どうして?」
 淋しそうなユリアの言葉に、ぼくは思わず聞き返す。 ユリアは右手を握りしめる。口調に、急速に陰がこもってきた。
 「この歌は、昔から覚えているんです。多分、記憶をなくす前から…。 昔を忘れてしまった後でも、この詩だけは、どこかで覚えていたのです。」
 「……。」
 「でも…、確かにこの歌には続きがあるはずなのに、 …どうしても、思い出せないの…。」
 ユリアの声が、どんどん震えて、弱々しくなっていく。 下手をすると、このまま泣き出してしまいそうな雰囲気だった。 …もっとも、精神力の強いユリアは、これまでどんなに辛くても、 決して涙など見せなかったものだ。
 「だ…、大丈夫?…ごめん、変なことを言って。」
 ぼくは、慌ててユリアに駆け寄った。腰を下げて、前髪に隠されたユリアの表情を伺う。 一見穏やかだけど、心の奥の動揺は隠しきれていなかった。
 ユリアはこちらを振り向くと、哀しい瞳でぼくを見つめた。
 「だめですね、わたし…。今日だけは、明るくしようと思ったのに…。」
 ただ、昔を懐かしんでいるだけではない。何か、深い冥さを宿した瞳だった。 それを見ているうちに、ぼくも不安の暗闇に襲われた。 振る舞いが、これまでに見られないほど明るかったと思ったら、 急に落ちこんだり…。感情の起伏が激しすぎる。
 「どうしたの?…今日のユリアは少しおかしいよ。 何か気になることでもあるの?」
 ユリアの肩にぎりぎり触れない程度に手をやって、ぼくは問いかけた。 ぼくが、ユリアを安心させられれば、と思って。
 ユリアは目を伏せ、さっきとは別人のようなかすれた声を上げた。
 「…なんだか不安なんです…。セリス様と離れ離れになって、 もう二度と会えないような気がします。わたし…恐いのです…。」
 本当に、心細そうな声だ。これまでのユリアは、繊細な容姿の中にも芯の強さを秘めて、 ぼくを安心させてくれていた。だけど、今は…、触れただけで壊れてしまいそうなほど、 儚げなユリアが目の前にいる。
 それでも、御伽噺のお姫様のように、「助けて…。私を守って…」と、 目をきらきらさせ、涙を流して迫ったりしないところに、ユリアらしさが残っていた。
 「大丈夫だよ、ユリア、前にも言っただろう。 ぼくはユリアを守る、そう決めたんだ。だから信じてほしい。」
 ぼくはどうしても、ユリアの肩を優しく手で包んで、そう言わずにはいられなかった。
 いつもいつもユリアに甘えて、守られっぱなしのくせに、 何を偉そうなことを…。普通、そう思うだろうけれど。 あんな、不安定で脆い心を見せられたら…。 「どうにかして、ぼくが護ってあげたい!」と、保護欲を爆発させるのが、 あるべき男の姿というものだろう。 はっきり言って今のぼくは、あまりの可愛さに、何もかも忘れてユリアの身体を、 「ぎゅううぅぅ〜」ときつく抱きしめたい衝動を必死で抑えているところなのだ。 何かこれ以上の刺激が加わったら、ぼくが狂わないとは保証できなかった。
 ユリアは、相変わらず下を向いているけど、柔かい声で答えてくれた。
 「ええ…、信じています…。ごめんなさい、セリス様…。 わたし、困らせてばかりで。…今日は、楽しもうと思ったのに…。」
 その声は、ぼくの感情へのさらなる起爆剤となった。
 なんて優しい…!
 ユリアは、襲い来る不安と、ずっと戦っていたのだろう。 それをずっと覆い隠して、いたずらをしたり、歌ったり、 できる限り明るく振る舞っていたのだ。ぼくを、不安にさせないために。
 その思いが、ぼくの心を激しく揺さぶった。
 「ううん、嬉しいよ。きみの本当の気持ちを伝えてくれて。 前に言ったよね、ぼくは、本当のユリアのことを知りたいんだ。」
 「はい…。」
 うつむいたユリアのその声は、弱さと強さ、暗さと明るさが混ざり、 ぼくの頭を真っ白にしていった。ユリア、ユリア…、愛おしすぎる。 …ぐぐぐ、こ、これはまずい。
 ぼくを変態にしようとする自分の中の激情を抑えるため、ぼくは少しユリアから離れた。 深い青空と眼下の絶景に目をやり、自分を無理やりさわやかな気分に持っていく。 そして、話題の転換を試みることにした。
 「長い旅で、疲れが出たんだよ。ずっと戦い続きだったからね。 次はミレトスの自由都市に行くから、そこでしばらく休むといい。」
 ぼくは、さわやかさの仮面をかぶって、努めて明るく、早口でまくし立てた。 ユリアは、ゆっくりと顔を上げ、きょとんとしてこちらを見た。 ぼくは、さらに思いを巡らし、考えついたことを口に出す。
 「あっ、そうだ。また二人で街へ買い物に行こうか、 ユリアが好きな物を買ってあげる。」
 そう。今のぼくの最大の楽しみは、何と言ってもユリアとのデートなのだ。 トラキアの町は、貧しくてそれどころじゃなかったけど、 ミレトスなら色々な店がありそうだ。 前回ユリアに買ってあげた花のアクセサリーは、残念ながらもう枯れてしまった。 今度は、ぼくじゃなくてユリアに、買いたい物を選んでもらおう。
 ぼくは、ユリアを見つめ、ドンと自分の胸を叩き、堂々と宣言した。
 「お金のことなら大丈夫、心配しないで。きみの欲しいものなら、いくらでも出すから。」
 そこ、セリフが違うぞ!…とは言うなかれ。このぼくが、 「あまり高いものはだめだよ」などと口にすると思う?甘い、甘い! 本物のセリス様は、武器の修理代もあるから遣り繰りが必要だけど、 ぼくは武器など、ついぞ使ったことがないからね。 これまで貯めたお小遣いは、全てユリアとのデート代になっているのだ。
 ユリアはしばらくの間、目を点にしてぼくを見ていたけれど、 ぼくの言葉が終わると、ユリアは思わず息をもらし、笑顔を作ってくれた。
 「セリス様ったら……。でも、うれしい…ありがとう…。」
 アルスターの前の陣地で、仲直りをしたときと同じ笑顔。 ユリアの気持ちをどこまで支えられたかは分からないけれど、 ぼくの気持ちに応えてくれたのは嬉しかった。
 「やっと笑ってくれたね、よかった。」
 そう言って、ぼくもにっこり笑った。



 「何か、思い出になるようなことをしたいね。」
 「はい?」
 「せっかく、ここまで来たんだからさ。記念に何かしようよ。」
 そんなことをぼくが言ったのは、話題を途切れさせないための、 ほんの軽い気持ちだった。別に、具体的に何かしたいことがあったわけではない。
 ところが、ぼくのその言葉は、ユリアの心にかなりの影響を与えたようだった。 ユリアは、無表情でしばらく虚空を見つめる。その眼が、次第に決意の色に染まって行った。
 「そう、ですね…。ここにいられるのも、もうあと少し…。」
 確かに、もうすぐ、トラキアを去らなければならない。 …このときのぼくは、そう思った。
 ユリアは、唇を真一文字に引き締め、あごを引き、ゆっくりとぼくに近寄っていった。 ぼくの正面…かなりの至近距離に到来する。とろんとした優しい瞳でぼくを見つめたユリアは、 穏やかな一言で、ぼくの心臓を極限まで跳ね上げた。

 「セリス様、少しだけ目を閉じて…。」

 このとき、ぼくが何を考えて顔を真っ赤にしたか。 読者諸賢ならば、推察は容易であるはずだ。
 意中の女性と、二人っきりでいて、「思い出になるようなことを」と言って。 返ってきた言葉が、「目を閉じて…」である! しかも、お互いの息遣いが感じられるほど、接近している。 …これで、期待するなと言う方が無理というものであろう。
 ユリアって、こういう時は意外と積極的なんだ…。
 ぼくの方だけが一方的に照れてしまって、何だかくやしい。 そこで、ちょっとユリアをいじめてみたくなってしまった。
 「うん…。何をするの…?」
 これで、ユリアが恥じらいながら、あの神聖なる言葉を口に出せば…。いい…っ! …そんな思いと、いくらかの罪悪感を持って、ぼくはユリアをちらりと見た。
 ところが、ユリアからの返答は、ぼくの期待から全く外れたものだった。 …いや、期待以上のもの、だったかもしれない。
 「セリス様に、魔法防御を高めるマジックシールドの呪文をかけます。」
 ユリアは、眉一つ動かさず、柔らかな声に意思の光を込めて宣告した。
 ぼくの心臓は、今度は別の意味で跳ね上がった。

 マジックシールド。この前、アーサー兄妹から聞いた、例の危険な術である。 魔術が失敗して、術者は長期間倒れたこともあると聞いた。
 「えっ!? でも、その呪文を使うと、ユリアが危険じゃないのか?」
 ぼくは慌てて、止めに入る。ぼくの助けになるからといって、 ユリアにそんな危険を冒させるわけにはいかなかった。
 だが、ユリアは、厳かな声で自分の意志を通した。
 「大丈夫です…。わたしの最後のわがままだと思って、 言うとおりにしてください。」
 そこには、高貴な者のみが持つ風格があった。まっすぐぼくを射抜く深い眼差し、 気品に満ち溢れた物腰、静かだが有無を言わさぬ威厳に満ちた声。 本気になったユリアには、到底ぼくは太刀打ちできないことを知った。
 心配なのは確かだけど、ユリアならきっとうまくやってくれるだろう。 ぼくの方も、頑張って集中して、魔法を受けなければならない。 ユリアのことを思うなら、それが今のぼくにできることだった。
 ユリアは、複雑な飾りのついた古びた杖を手に取り、 それで足元の地面に、ぼくを囲むように直径1メートルぐらいの円を描いた。 さらに、それに内接する三角形を二つ描き、六紡星形を形作る。 懐から、小さな青い瓶を取り出し、その中の透明な液体を足元に…、 そして、ぼくの頭に振りまいた。
 「さあ、目を閉じて…。わたしの想いを、受けとめてくださいね。」
 神秘的な色に包まれたユリアの声に従い、ぼくはゆっくりとまぶたを閉じた。

 それから、どれぐらい時間が経っただろうか? ほんの数秒のような気もするし、数分以上経ったような気もする。 漣のように聞こえてくるユリアの呪文が、少しずつ近く聞こえてくる。 そして…。ぼくは、魔力を込められた温もりに包まれた。
 それは、柔かく、いい香りで、暖かく、心地良く、…そして、優しかった。
 さっき、ぼくの目を包んでいたものが、穏やかに全身を包み込んでいるのが分かる。 そうしている内に、ぼくの中に一つの感情が激しく湧き上がってきた。
 ユリア、ユリア、ユリア…。
 ぼくの頭の中が、今、ぼくを抱き、祈っているひとで一杯になっていく。 暗闇の中、恋しさと切なさはどんどん溢れかえり、 ぼくは理性を失っていった。…いや、 本当のぼくが、ぼくの心を支配したのかもしれない。
 瞼の中の世界が、淡い青に光った。全身を、優しい魔力が包み込む。 同時に、ぼくの胸の中で、切ない声が響いた。 その囁きは、ぼくの耳には聞き取れないぐらい小さく、しかし、 ぼくの胸の中に、確実に届いた。
 「セリス様を、どうかお導きください…。」

 その瞬間。ぼくの中で何かが弾けた。
 目を閉じたまま、両手をぐるっとぼくの前に回す。 そこには、確かな命の感触があった。そのまま、きつく抱きしめる。

 このひとの、全てが愛しくて。
 何も考えずに、自分の気持ちを解き放っていた。


 「好きだよ、ユリア…!」




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