バカ殿セリス様・華麗なる日々

第8章・想いを幸せに(前編)


 それは、突然の出来事だった。
 目の前に広がる壮大な景色が一瞬にして何かに遮られ、視界全体が闇へと転落する。 何が起こったのか分からずに、ぼくは混乱した。
 だが、背後からぼくの顔を包んだその闇は、優しくて、柔かくて、温かくて…。 この上なく、心地良かった。
 ぼくは、どこにいるのだろうか?…ずっとこのままでいたい気もする…。
 気が動転し、金縛り状態になっているぼくの背後から、少なからず戸惑ったような…、 それでいて、母のように優しい声がした。
 「…わたしは、誰だと思いますか?…当ててみて、くれますか?」
 ぎこちないその声で、ぼくは何が起こったのかを悟った。

 このいたずらに対して、気のきいた答え方は何だろうか? 普通に答えるよりも、ちょっとひねりを効かせて…。
 「世界で一番可愛い女の子だよ。」というのはどうだろうか。 …うーん、ぼくにとっては正解ではあるのだけど、ちょっと大雑把過ぎるかな。 「誰だか分からなくて、誤魔化そうとしていませんか?」と言われるかもしれない。
 じゃあ、より具体的に、「魔法と杖を使う、紫の髪の人だね。」…とか。 でもそれだと、あまり色気が無いなあ。ティニーもこの範囲に入ってしまうし。
 色気を醸し出すならば…、「ふっ、このぼくに分からないでも思ったかい? マイスウィートハニー、ぼくの可愛い子猫ちゃん。」 …うむむ、これもダメだ。 相手が相手だけに、こんなしゃれが通じるかどうかは、はなはだ疑問である。 「わたし、猫ではありません。」とか返されたら対応に窮する。

 「あの…、分かりませんか?…ごめんなさい。」
 ぼくが色々考えているうちに、背後で焦りと困惑の色を含む声が響き、 ぼくの顔を押さえている暖かいものが離れようとした。 ぼくは、即座に声を上げる。
 「あっ、ま、待って!分かる、分かるよ。」
 せっかく彼女がこんな行動に出てくれたのに、分からないなどと言うのでは 末代までの恥辱である。いついかなる状況であろうとも、 この問題だけは正解しなくてはならなかった。
 ぼくの声を聞いて、背後の気配の主は動きを止める。 何十秒間…、いや、何分間だろうか?ぼくをやさしく包んでくれた、柔かい闇。 その背後に光る一等星を心の中で意識して、ぼくはゆっくりとその名前を声に出した。
 「…ユリア。」

 ぼくの目を遮っていたものが、すっと取り払われる。 顔を包んでいた温もりが、吹き込んできた涼しい風に取って代わられた。 今までの心地良さが名残惜しく、ぼくは数秒の間、動きを止めてその場の残り香を味わう。 そして、ぼくの目をふさいだ犯人を確かめるべく、ゆっくりと後ろを振り向いた。
 …これで、後ろにいたのがハンニバル将軍とかだったら、 ぼくはショックで数週間寝込んだかもしれない。 だが、神様はそこまで悲劇的な冗談は用意していなかったようだ。 これまで、ぼくの視界をふさいでいた白魚のような指先から、腕を辿って背後を見ると…。
 そこには、好奇心と戸惑いをないまぜにした、 いつもと少し違うユリアの表情があった。

 「驚いたなぁ…。きみが、こんなことをするなんて。」
 「あの…。ごめんなさい、びっくりさせてしまって。 …でも、当ててくれてうれしいです。」
 まだ顔を紅潮させ、頭をぽりぽり掻いて喋るぼくに向かって、 ユリアはおどおどしつつ、ぺこりと頭を下げ、少し上ずった声で答えた。 いつも感情を隠すのが上手なユリアだけど、今日はどうも勝手が違うようだ。
 「あ、謝ることはないよ、ぼくも楽しいから。また、こういう事をやってほしいな…。」
 「あ、ありがとうございます…。」
 「いや、べ、別にそんなことは…。あ、ユリア、ぼくの目をふさぐとき、 実はけっこう思いきりが要ったんじゃない?」
 「えっ…。よく分かりますね、セリス様…。 わたし、こういう事をしたのは、初めてなのです。 どのようにやればいいのか分からなくて、とても戸惑いましたが…。 でも、やってみると楽しいものですね。セリス様の仰る気持ちが分かりました。」
 ユリアが、照れを隠すかのように(彼女にしては)早口でまくし立てる。 それを聞いて、ぼくはあの朝を鮮明に思い出した。デートに出かける前、 ぼくはユリアに「だ〜れだ?」作戦を口走ってしまったのだが。 まさか、ユリアがこんな茶目っ気を出すとは、思いもしなかった。
 「ははっ、面白いよね…。」
 ぼくは、嬉しさと意外さを混ぜた気持ちを声に出す。 ユリアも、すこぶるご機嫌のようだった。



 ここは、トラキア半島中央部にそびえる高い山の頂上である。 ここでの戦いの終結を記念して、ぼくたちは竜騎士にトラキアの景勝地へと 運んで行ってもらうことにしたのだ。 アルテナ王女が、よくトラバント王に連れられて訪れた、お気に入りの場所だという。
 「綺麗ね…。」
 ユリアが感嘆の声を漏らす。確かに、素晴らしい景色だった。 戦争中の霧もいつの間にか消え去り、空は真っ青に晴れ渡っている。 レンスターを含む、トラキア半島全域が見え…、いや、それどころか、 海峡の向こうには、ミレトスやグランベルの地まで遠くにかすんで見えた。

 「こんな風に、二人で落ちついて遠くの景色を見るのは、二回目かな…。」
 「そうですね。前は、アルスターで…。」
 ユリアが、気さくに応じてくれた。…今日のユリアは、俄然、印象が違う。
 「ユリア、明るくなったね。今日なんかも…。」
 ユリアは、出会った頃から魅力的だったけれど、当時は徹底して無口で、 感情を表に出さなかった。それが、少しずつ変わってきている。 口数も増えたし、それに何より…。
 「前は、きみが自分から何かをすることって少なかったけど、 最近は、何て言うか…、ずいぶん積極的になったと思うよ。」
 さっきの「だ〜れだ?」なんて、昔のユリアでは考えられなかった。 そして、今のぼくの言葉にも、笑顔までは見せないものの、 柔らかな目つきと声色で答えてくれた。
 「そうでしょうか…。照れるわね…。」
 そう言って、ちらりと上目遣いにぼくを見て、すぐに目をそらした。
 …かっ、かわいい…!
 冷静で無表情なユリアも、神秘的な魅力があるけれど、こういうユリアもいい…。 ユリアの多くの側面を知るのは、ぼくにとって無上の喜びだった。
 「もっと、いろんなユリアを見たいな。きみのこと、もっと教えてよ。」
 調子に乗って、そんなことを注文する。だけど、この質問は抽象的過ぎたのか、 ユリアは目を見開いて首を傾げるだけだった。ぼくは、言い直しを迫られた。
 「えーとつまり…、何か、特技とかはない?」
 「特技、ですか?…大したものはありませんが、光魔法と杖を使うことなら…。」
 「いや、そういうんじゃなくて…。戦いでは使わないけれど、 好きなこと…。趣味か何か、あるかな?」
 それに続くのは、しばらくの無言の時間だった。ユリアは不動の体勢でいるけど、 これは何かを考えている時の癖だ。 …そういう事が、ぼくにも少しずつ分かるようになってきていた。
 「…でしたら、歌はどうでしょうか?」
 しばらくの間のあとに返ってきた答は、ちょっと意外だった。 でもそう言えば、確かにユリアは音楽が好きだといっていた。
 「昔から知っている、好きな歌があります。 一人でいるときは、これを歌って、元気を出したの。 …歌ってみて、いいですか?」
 そう言って、ユリアは深呼吸する。もうすっかり、やる気のようだ。
 「うん。どんな歌なのか、聴きたいな。」
 ぼくが言うと、ユリアはてくてくと歩き、少し離れてぼくのほうを振り向いた。 そして、ぺこりと頭を下げ、腕を広げ、少し胸を張って息を吸い込む。…そして。

 ♪…あなたはどこ?…わたしはだれ…?

 美しい音色がぼくの耳に流れ、心に染み渡った。
 こうして、トラキアの山頂の狭い高台は、 「歌姫」ユリアのための臨時特設ステージとなったのである。



 あなたはどこ? わたしはだれ?
 見知らぬあなたも わたしを探しているの

 夢の中のあなた わたしは夢の向こう
 目が覚めるともう あなたは見えない
 鏡の前のわたし あなたは鏡の奥底
 いくら手を伸ばしても 触れられない

 お日様とお月様 青い海と緑の山
 別々に住んでいると ずっと出会えないの?

 いいえ、
 歩き出そう 本当の自分を探すために
 いつかめぐりあえる 時の交わる場所で
 そう… あなたは、わたしだから


 ユリアの歌声は、美しかった。
 正直言ってぼくは少し心配していたのだが、 このユリアの歌は、過去の汚名を返上してお釣りが有り余るほど出るものだった。
 普段のユリアの声は大きくない。ゆっくり丁寧に話すから、 聞き取りやすい話し声ではあるけれど、声量自体は小さい方だ。
 ところが、ユリアの歌声はそんなぼくの印象を変えた。 背筋がきちんと伸び、お腹の底からしっかりと出す歌声は、 まろやかな深みのある、芯のしっかりした遠鳴りの声だった。 しかも、圧迫しない程度に十分大きい声で、ぼくの皮膚と心を揺さぶった。
 ゆっくりした歌だから、リズムについての心配は無用だ。 むしろ、微妙なテンポの揺れが、音楽をより感情豊かなものにしていた。 音程は見事に安定し、微妙なビブラートが青空を振るわせた。

 流れるようなハミングをしばらく続けた後、ユリアの歌は次の段階に入った。


 わたしはなに? あなたはいつ?
 さまようあなたも わたしと手をつなぎたいの

 闇の中のあなた わたしは光の向こう
 ぶつかったらもう お互い消え行く
 今を生きるわたし あなたは時の奥底
 本当の気持ちに 触れられない

 にんげんとかみさま 昔のわたしと未来のわたし
 別々に生きていると 心は通じないの?


 …自分の舞台を自由に彩る、可憐な歌姫。目の前に織り成される世界に、 ぼくは完全に心を奪われていた。



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