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バカ殿セリス様・華麗なる日々
第11章・ぼくたちの聖戦(後編) 「ユリア…、元に戻ったんだね、よかった…。」 ぼくは、いったんユリアと離れ、ぼくの手でユリアにつけてしまった泥を拭き取った。 そして、彼女と向き合い、にっこりと笑った。 さっきの笑顔は、ガネーシャで見せてくれたのと同じ、 ユリアの数少ない笑顔の中でも最高のもの。作った笑顔ではなく、自然なものだった。 今は、もうすっかり、いつもの表情に戻っている。冷静で無表情なユリアだ。 「はい。わたしは、マンフロイに操られていたのですね…。 そして、セリス様に救っていただいた…。」 ユリアは、静かに語った。その表情、声色からは、感情を読み取ることはできない。 分かるのは、こんな状況でも感情を押さえ、表情をコントロールすることができるほど、 ユリアが大人だということだ。 ぼくも、それを見習うことにした。ただ一言、ユリアにやさしく語った。 「でも、良かった。こうしてきみが無事でいてくれて…。」 本当は、別の意味で「無事」なのかどうか、非常に気にかかるところなのだ。 ダーナ城でブラムセルに捕らわれていた踊り子リーンは、 女性として屈辱的な経験を強いられたと聞く。ユリアの場合は、どうだったのか? それは、ぼくの心に大きな引っ掛かりを残していた。 だけど、それを聞くのは、止めておこうと思った。 仮に何かあったとしても、それをぼくの力で無かったことにできるわけではない。 大変だったことを思い出させて、ますますユリアを苦しめるだけだ。 それに、ユリアが捕らわれたのは、彼女を守れなかったぼくの責任でもある。 だから、ユリアにどんな過去があろうと、ありのままのユリアを正直に受けとめよう。 …そう思った。 「セリス様、思い出しました。わたし…。」 何かを話し始めたユリアの唇を、ぼくは人差し指でそっと押さえた。 「もう、何も言わなくていい。レヴィンからすべてを聞いた。」 ぼくは、静かにユリアの言葉を封じた。 ユリアが今、何を告げようとしたかは分からない。 失っていたものは、あまりにも大きかった。 皇女で、ぼくの妹であるという、自分の素性についての話かもしれない。 マンフロイに捕らわれた事と、操られたとは言え、 ぼくを襲ったことについての謝罪かもしれない。あるいは、そのことについて、 責めるか、感謝するか…、ぼくに何らかの気持ちを表すのだろうか。 それとも、ユリアの父上、アルヴィス皇帝の生死を尋ねるのか。 そのどれであっても、今は辛すぎた。過去を振り返るのは、いつでもできる。 だけど今、ユリアの言葉で、それを実行させるのは、あまりに過酷だった。 ぼくは、改めてユリアを見つめた。その表情には、変化が無い。 だけど…、その仮面の奥に秘められた経験を、ぼくは思い出してしまった。 ユリアの過去の辛さ…、もはや、述べる必要は無いだろう。 ぼくはずっと、ユリアだけを見つめていた。 ユリアだけを、護ろうとしていた。でも、宿命は変えられなかった。 それが悔しくて、つい、ユリアに謝ってしまった。 「ユリア…ごめん。ぼくが、もっとしっかりしていれば…。」 そう言ってから、しまったと思った。ユリアに辛い思いをさせたくないと思ったのに、 つい、思い出させるようなことを言ってしまった。 ぼくも、まだまだ弱い…。 フォローのつもりで、ぼくは強い口調で言いなおした。 「いや、今は、過ぎたことを振り返るのはやめよう。」 そう言って、ユリアの目を見て。 ぼくは、今の一言が、ユリアにとってより一層辛いものであった事を知った。 ユリアの、最も過酷な運命。 それは、過去ではなく、現在直面しているところにあった。 ユリアは、現存するただひとりの、聖者ヘイムの直系の末裔…ナーガの使い手。 そして、その役目は…、ロプトウスを滅ぼすこと。 だが、ロプトウスは、ユリアの大切な兄、ユリウスでもある。 ぼくは、ユリアの過去を直視するのがしんどくて、目を反らしてしまったけれど…、 未来はもっと辛かったのを思い出し、自分の言葉を後悔しかけた。 でも、ユリアは違った。しっかりと、未来を見据える力を持っていた。 「いいえ、これで良かったの。」 ユリアはぼくの言葉を受けて、しっかりと返事をした。 過去から現在を肯定できるユリアに、ぼくはまた一つ大事なことを教えられた。 ユリアは、首をくるっと回した。 そして南を向き、遠い地平線を見やる。木と草以外何も無い大地において、 遥か彼方にひとつ、際立った存在があった。 それは、ぼくにとっては、建物と塔と壁の複合体であり、 単なる立派な建築物に過ぎなかった。だが、ユリアにとってそれは、 十年間の子供時代の象徴なのだろう。 そして今は、解放軍にとっての敵の本拠地となっている。 バーハラ城を見つめるユリアの眼は、遠いだけでなく、静かで、深かった。 ユリアが、どんな思いなのかは分からない。 自分の信じてきたものが、崩れ落ちる。それは、誰にとっても辛いものだろう。 ティニーは、戦場でアーサーと出会い…、迷った末、 それまでの敵と味方をとりかえることを選んだ。 ユリアの場合は、どうするのだろうか? ユリアがなんと言おうと、それを受け入れる気持ちはあった。 それが、ぼくにできるせめてもの役目だった。 気づいたとき、ユリアはじっとぼくを見ていた。 ぼくは、ユリアが何かを告げようとしているのを悟った。 バーハラ城に向いていた自分の目を戻し、深呼吸する。 そして、腹の下に力を入れ、ユリアの決断を聞く覚悟をした。 ぼくとユリアは、穏やかに見つめあった。 「わたし、自分がこれまで生きてきた理由を、はじめて知ったの。」 ユグドラルの中心、バーハラの果てしない大平原の中。 ユリアは、今まで見たどの姿よりも美しかった。 つややかな絹のドレスとローブは、夕日を受けて、鮮やかなオレンジに輝いた。 紫の髪は、彼女の生き方を表すように、長く、滑らかに、まっすぐ伸びていた。 穢れを知らないかのような白い肌は、綺麗ごとでは済まない人の世の 苦難を経験した今でも、彼女が保つ純粋さを示していた。 まっさらな額には、全ての宿命を受け入れる証であるサークレットが、きらりと光った。 そして、深い淵から甦った紫の瞳は、ぼくの眼と、こころをまっすぐに見つめ…、 自らの運命とともに生きることを決めた、厳かな決意の色をたたえていた。 笑いも涙も気負いもない。ユリアの声は、いつも通りの、自然なものだった。 「わたしは戦う。逃げたりはしないわ。」 この一言には、ユリアの人生、全てが凝縮されていた。 あらゆる言辞がぼくの脳裏を駆け巡ったが、どれも、ユリアの言葉の相手をするには、 用をなさなかった。 最後に残ったのは、最も単純な言葉だった。 「そうか…。ユリアは強いな。」 あとはもう、何も言えなかった。 ぼくは、ユリアの手を、ぎゅっと握りしめた。 そう言えば、もう、ここ十年近く、泣いたことなど無かったな…。 ぼくは、胸の中でつぶやいた。 胸の奥からこみ上げた、ユリアへの想いが、形となって…。 ぼくの眼から、あふれ出していった。 「う、うーん…?」 限りなく優しい感触の中でまどろんでいたぼくは、暗闇の中から目を覚ました。 どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。 目覚めたばかりで、周囲がぼやけて見える。あたりの様子を確かめることにした。 ぼくが眠っていたのは、柔かい毛布の中。ユリアと出会った、 あの平原から少し移動した、大きな木の陰だ。時刻は朝。 そして、毛布の横には焚き火が赤々と燃え、 ラナとスカサハとラクチェや…仲間達が、ぼくをじっと見守っていた。 そして、ぼくの頭上に、何かが覆い被さるように…? 「良かった、気がついたのですね。」 やわらかく、暖かい声が、ぼくのすぐ側で聞こえた。 ユリアが、ぼくの顔を覗きこむように、至近距離でぼくを見つめていた。 ラナたちから聞いた説明によると、ユリアとの話の途中、泣き崩れてしまったぼくは、 そのまま倒れて、眠ってしまったのだそうだ。 考えてみれば、リザイアを受けたぼくの肉体は、ほとんど死にかけていたのである。 ユリアはライブの杖を振り、懸命に手当てを施したという。 ぼくは一人で行くと言ったけれど、ラナは心配になって、後からついてきたらしい。 ぼくを看病するユリアをラナが見つけ、上着や湯たんぽなど役に立つものをユリアに渡し、 みんなを呼んできたのだそうだ。 「ごめん、また迷惑をかけてしまった…。ぼくは、 ユリアみたいに強くはなれなかったね…。」 ぼくはユリアに謝ったが、ユリアは優しく言葉をかけてくれた。 「いいえ、わたしにできることは、これだけですから…。」 向こうから、オイフェも感極まった声で喜んでくれた。 「セリス様、頑張られましたな…。」 「この寒い季節に、こんな場所で…。お身体、冷えているでしょう?」 焚き火の近くから、ティニーが声をかけた。確かに、野外で一晩を過ごしたのなら、 凍えていてもおかしくない。だが、 ぼくの身体は不思議とぽかぽかして、温かい活力に満ちていた。 それを見たラナが、ぼくとユリアを交互に見て、にやりと笑った。 「そうよね。私が来るまでは、セリス様の身体を暖める方法が無くて、 大変だったのよね〜…。でも、まさか、ユリア様があんなことをするなんて…。」 「あの…、ラナ様…。」 意味深なラナの口調に、ユリアは手で口を隠し、目を伏せて横にそらし、当惑した声を上げた。 珍しく、動揺した…と言うか、恥ずかしがっているような態度である。 「あ…、すみません、ユリア様。」 ラナはそう言って話題を打ちきったが、いたずらっぽい笑みは消えなかった。 ぼくの身体を、暖める方法…?あのときのユリアは、 道具なんて持っていなかったと思うけど…。武器のほかは、身ひとつで…って…。 も、もしかして…。 ぼくはある可能性に思い当たり、体中がゆでだこのように、ぼんっ、 と真っ赤になった。ぼくが地団駄を踏みながら、 「惜しいなあ、あの時もっと早く目覚めていれば、あーんなことやこ〜んなことを…!」 と悔しがったのは、後日の話である。 ユリアは、音も立てずに流麗な動作で額のサークレットを外した。 その飾りを扉のくぼみに当てると、カチッと音がして古めかしい大扉が開いた。 「やはり開いたな…。あったぞ、これがナーガの聖書だ!ユリア、ほら、受け取れ!」 さっそく宝物殿に入ったレヴィンは、無造作に目的のものを見つけ、 ユリアの前に突き出した。 古めかしい、年季を感じさせる本であるが、その表紙は金色に鈍く輝き、 ただならぬ存在であることを無言のうちに主張した。 「これが…。」 ユリアはゆっくりと両手で聖書を受け取った。 目を瞑り、赤ん坊を抱くようにやわらかく胸に抱えた。 その瞬間、ユリアの胸からまばゆい光が放たれた。黄色、緑、青…、 様々な色のオーラが、ユリアの全身を包む。豊かな髪がふわっと浮き上がり、 温かい波動が周囲に広がる。やがて開かれたユリアの眼の表情は、 恍惚と神聖とを兼ね備えていた。 「ああっ、不思議な気持ちがする…。」 この時すでに、ユリアは衣装を替え、より気品ある、知性を感じさせる姿になっていた。 称号を、 「 ユリアは、両腕をふわりと挙げ、聖書を捧げ持つように天へと向けた。 ユリアを包む金色の波動が、旧き巨竜の優しい顔を象ったように見えた。 「なにかとてもなつかしいような…、暖かいきもちが…。」 ユリア自身は、人であって神ではない。だが、自らの中に神を宿し、 その力を受け入れ、戒めて使うありようは、やはり神聖だった。 これが、脈々と受け継がれてきた竜の血の本領だったのだ。 「ユリア…、きみは、『聖女』だ…。」 大いなる力を司る少女に、ぼくは畏敬の念を込めて、そう呼びかけた。 「セリス様…。ここで、待っていてくださいね。」 まっすぐぼくに向けた視線で、ユリアは温和な声を出した。 ユリアと再会してから、十日ほど経っていた。 さんさんと、暖かな日差しが降りそそぐ、バーハラの城門前。 直属の十二魔将もすでに倒れ、残る敵は、ただ一人となっていた。 これからユリアが行く道が、一番辛い道だから…、 ぼくは、ユリアと一緒にこの道を行きたい。ユリアと同じ業を背負いたい。 何度、魂がそう叫ぶのを聴いただろうか。 だが、この門から先は、ユリアがたった一人で歩む場所なのだ。 それが、ユリアに課せられた運命…。いや、違う。 ユリアが、自分で選んだ道であった。 だから、ぼくは、切なさを、こころにしまって…、 「行ってらっしゃい、ユリア。」 にっこり笑って手を振った。 ユリアは、もう一度ぼくを見つめ…、 背を向けて歩き出し、城内へと消えていった。 もはや、言うべきことはほとんどない。 物語は、ぼくの力で語り得る次元を越えてしまった。 バーハラ城の上空に、二匹の巨大な竜が現れ、荒れ狂い、のた打ち回り…、 やがて、金色の竜が、黒い竜を押しつぶした。 黒い竜の姿は、大空へと拡散し、消滅していった。 ぼくが見たのは、ただそれだけのことである。 その光景は、ぼくに何の感銘も与えなかった。 真に聖戦と呼ぶべきは、ユリアの内面の戦いであっただろう。 城門の向こうから、ユリアの姿が現れたとき。 なにも考えずに、ぼくは走り出していた。 ぼくのもとに倒れこむユリアを、きつく抱きしめ、 ユリアの頭が、ぼくの首の下に埋まった。 世界で一番悲しい戦いを終えたユリアの気持ちは、誰にも完全には分からない。 ただ一つ、語れる事実がある。 強いユリアは、ぼくの胸の中で、何も言わず。 この長い旅路の中、ただこの時だけ…。 熱い涙を流した。 |