|
バカ殿セリス様・華麗なる日々
第11章・ぼくたちの聖戦(中編) 一歩、また一歩。今はまだ寂しい、グランベルの冬の風景の中を、 ぼくは歩んでいった。だが、枯れたかに見える木々も、その内部では、 新しい命が切々と、春の呼び声を待ちつづけていることに、ぼくは気づいていた。 さすがに、ずっと大声を上げて走っていたのでは体力がもたないから、 途中からは無言で歩いている。だが、ぼくの心には、喜びが次から次へと溢れ出し、 顔をほころばせていた。 無論、単純に喜べないことは分かっている。ぼくが話しかけたからと言って、 ユリアが正気に戻ってくれる保証はこれっぽっちも無い。 たとえユリアが帰ってきてくれたとしても、その先で彼女を待っているのは、 計り知れないほど辛い運命なのだ。今までのように「らぶらぶ」な関係を、 ユリアに求めるわけにはいかなかった。 だがそれでも、ぼくの今の内面を端的に表すとすれば、喜び、 と言うべきだろう。やはり、ユリアと再会できる幸せ。 そして、ユリアを救うという、自分で決めた使命に全力で打ちこめる充実感。 それらが、ぼくを無言のうちに突き動かしていた。 見晴らしの良い大地を歩き続けること、数時間。後方の自陣を振り返ったならば、 すでに豆粒ほどの大きさになっていただろう。もちろん、今のぼくは振り返りはしなかったが。 これだけ長時間、ライブの補助無しで歩き続けるのは初めてである事にも、 ぼくは気づいていなかった。かつて、砂漠をともに歩いたとき、ユリアの手から受け取った 活力。それが今、ぼくの心の中に、確かに息づいていた。 いつの間にか、雪の舞いは終わっていた。 日ははや傾き、目の前に落ちるぼくの影はどんどん長くなっていった。 何度目かの坂を越え、小高い丘の上に立つ。 それまで隠されていた光景が、目の前に広がった。 ぴゅうう…。 見晴らしの良い平原に、不意に吹き付けた風が、 その場にいる人の髪を揺らし、なびかせた。 ぼくの青い髪と、そして、目の前の坂の下に立つ、冥く赤い眼の少女の、 紫がかった銀の長髪とを…。 二ヶ月以上にわたって追い求めつづけた彼女の姿に、 ありったけの声で、ぼくは呼びかけた。 「ユリアっ!」 二ヶ月の間に、ユリアの姿は変わっていた。 いや、あまり彼女に注目してこなかった者なら、変化に気づかなかったかもしれない。 白のドレスと、紫のローブの組み合わせは、以前と全く同じ、ユリアのお決まりの衣装だ。 髪はやわらかな日差しを受けてつややかに輝いていた。 その肌はあくまで白く、傷ひとつ無い。 少なくともそこからは、際立った変化は見出せなかった。 しかし、以前のユリアとは、決定的に異なる点が二つあった。 ひとつは、その額にきらりと光るサークレットであり、 もうひとつは、憎しみに赤黒く光る、つり上がった両のまなこであった。 ぼくは、ユリアに向かって走り出した。走りつつ両手を広げ、 「即抱きしめモード」に入ったのが、ぼくらしかったかも知れない。 だが今回は、その準備は役に立たなかった。 ユリアは、笑みを浮かべた。それは、これまでぼくが見てきた数少ないユリアの笑顔の、 いずれとも異なる種類のものだった。 小さい子供が虫を踏み潰すときに見せる、無邪気な笑顔に似ていたかもしれない。 美女が意中の相手を篭絡したときの、意地悪な笑いに類するものにも思えた。 その笑顔に、ぼくの背筋はぞくりと震えた。ユリアはそのまま、両腕をしなやかに振り上げ、 ぼくの方に伸ばした。流れるような動作で、右手をすぼめ、すっ…、 と何かを摘み上げるような仕草をする。 「リザイア…。」 次の瞬間、ぼくの周囲の景色が、真っ赤な光に包まれた。ぼくは前後不覚となり、 その場に立ち尽くす。見る見るうちに、ぼくの身体から活力が吸い取られていった。 ユリアを救う希望も、恋人になる野望も、ユリアのところまで歩く元気さえ、 吸い取られていくようだった。ぼくはそこに、恐ろしい幻を見た。 やがて、紅の光は、目の前で笑みを浮かべるユリアへと 収束していった。ぼくの気力を吸い取り、ユリアの目が、髪が、肌が、 不気味に輝いた。 「ううっ…。」 ぼくは、その場にがっくりと膝をついた。 ぼくの活力は、自分の身体から飛び出してユリアへと入っていったが、 ぼくの身体はそれを追うことができなかった。 そのままぼくは前のめりに倒れこみ、両手が地面の泥で汚れた。 「ユリアぁ…。」 ぼくは、地面にはいつくばり、蚊の鳴くような小さな声で、情けなくうめいた。 外から見れば、ただ倒れているだけに見えたかもしれない。だがこの時ぼくは、 肉体と精神の双方に、瀕死の重傷を負っていたのである。 体中から、あらゆる要素が抜け落ちたような状態だった。 もがこうとしても、体が動かない。手の指一本を動かすことさえ、 なかなか思うに任せなかった。 精神に受けた傷は、もっと深かった。あの真紅の光の中で、ぼくは幻を見ていたのだ。 ぼくが淫らな欲望を抱き、ユリアに襲いかかってしまう。 ユリアは平手打ちでぼくを叩き落し、失望と軽蔑をこめた目で睨みつける。 そして、静かに一言吐き捨てて、ぼくのもとを去っていくのだ。 「そんな人は嫌いです…二度と会いたくありません…。」 ぼくの耳に、そんな幻聴が響いた。 ユリアのこの一言は、ぼくという存在を世界から抹消するに十分なものであった。 辛うじて生きていられたのは、それが幻覚、幻聴とわかっていたからである。 だがそれでも、ぼくの心はすぐには立ち直らなかった。 日頃から、ぼくの心のどこかにユリアへの下心があって、 時々後ろめたい気分になっていたことは事実だったから。 ユリアを守れず、傷つけ、あまつさえ邪な気持ちを抱いた…、こんなぼくに、 ユリアを救う資格など無い…。そんな絶望の黒い霧が、ぼくの心を暗く覆った。 「ううっ…、ぼくは…。」 かすれる声を上げ、ぼくは地面から泥まみれの顔を上げた。 見上げる先にあったのは、神々しいばかりのユリアの姿。 紫のローブが黄昏の光を受け、妖しく揺らめく。以前の清楚なユリアの雰囲気は消え失せ、 重厚な威圧感がそれにとって代わっていた。 その口もとが、にやりと歪み、無機的に言葉を発した。 「マンフロイ様ニサカラウモノ、ミナ殺ス…。」 闇に囚われたその姿は、さながら夜の女王といった雰囲気である。 しなやかに動くその身体からは、妖艶な色気さえ醸し出されていた。 その闇の瞳を前に、ぼくは禁断の思考に捕らわれてしまった。 ユリアにだったら、殺されてもいいっっ! それは、天国からのとてつもなく甘いささやきだった。 この女神様を前にしたら、すすんで命を投げ出したくなる衝動に駆られるのだ。 むしろ、あらゆる死に方の中で、ユリアに殺されるのは、最も幸せなものではないだろうか? 「ククク…。」 ユリアの手が、再び動き出した。先ほどと同じ、流麗で素早い動作で、 魔法を紡ぎ出してゆく。このリザイアが、ぼくを死へといざなうであろう。 ぼくの存在が全て、ユリアの中に吸い取られ、ぼくは彼女の中で、 ユリアとひとつになる…。それは、どんなに楽で、心地よいことだろうか? 残酷な天使の誘惑が、ぼくの心の底を揺さぶった。 …いけません…セリス様…動いて! その瞬間…。 ぼくの脳裏に、ユリアの声が響いた。それとともに、ひとつの思い出が蘇る。 トラキアの山頂で、ぼくが抱きしめたユリア。 あのとき、ユリアはぼくのために祈ってくれた。ぼくの気持ちの波動に、 確かにユリアが共鳴するのが感じられた。 …思い出した。ユリアは、天使や女神なんかじゃない。可愛くて、すごく強いけれど、 失敗もするし罪を犯すこともある、ひとりの女の子なのだ。 ぼくにとって、決して雲の上の存在ではない。 ぼくは、生きる力を取り戻した。いや、ただの自惚れかも知れない。 だけど、ユリアはぼくを必要としている。 ユリアのためにも、ぼくは生き残らなければならなかった。 …そこまでが、全て一瞬だった。 ユリアが手を振り下ろし、致命的な一撃を放ったその時。 ぼくの両手両足は素早く動き、すでに立ち上がってその場から離れていた。 …闇に覆われたユリアの瞳に、この時初めて微妙な揺らぎが見えた。 「ユリア…。」 まだ、動くのは楽ではない。歩くのがやっとである。だが、ぼくの眼はしっかりと、 ユリアを見据えていた。 冥いユリアの眼に、怯えの色が走る。ユリアは再度身構え、 さっきよりも素早い動作で魔法を放った。再び、ぼくの視界を赤い光が覆った。 「ユリアっ!」 だが、ぼくは見失わなかった。赤い光の向こうに見える、闇に捕らわれたユリアの姿を。 ユリアのもとに、行くんだっ…! ぼくがそう願ったとき、ぼくの右手にはめた腕輪が、白い光を放った。 そして、ユリアの作った赤い光が消え失せ、ぼくは自分が助かったのを知った。 一歩、また一歩。泥だらけの顔と、よろよろともつれる足で、ぼくは坂道を降りてゆく。 今にも尽きようとする体力を、気持ちだけで支えていた。 ユリアは、さらに魔法を放ちつづける。一度、また一度。 そのたびにぼくを覆い包む赤い魔の波動は、ぼくがユリアを想うたびに、 右腕の腕輪の光によって飛び散っていった。 「ユリア…。」 荒い息を吐き、どくどく脈打つ心臓を叱咤し、ぼくは歩みつづけた。 ぼくの根性は、人から偉いと賞賛されるようなものではない。 人は、生きるためなら、誰だって必死になるだろう。飢えに苦しむ者は、 食料を求めて動き回るだろう。一度食料が得られなくとも、何度も探し求めるだろう。 ぼくが歩くことだって、そんな普通の人の行動と同じだった。 ぼくが生きるには、ユリアが必要だから。 ぼくがあきらめない理由は、それだけだった。 ぼくは、聖戦という言葉が嫌いだった。人は、信じる神の為なら、 ここまで残酷になれるのかと思い知らされる。 だけど、もしも、自分自身を投げ打ち、その存在を懸けて信じるもののために戦うことを、 聖戦と呼ぶならば。ユリアの心を閉ざすものと、弱い自分自身に抗って、 歩み続けることは…。 これは、まぎれもなく、ぼくの聖戦だった。 「ユリア…!」 その名を、幾度叫んだことだろうか。ついにぼくは、ユリアのもとに辿りついた。 「アア…イヤ……」 逃げようとするユリアの肩を、がっちりと掴む。この程度の拒絶反応をユリアが示しても、 怯むぼくではなくなっていた。自分の気持ちをはっきりと伝えるまでは、 退くわけにはいかなかった。 「ユリア、起きてよ…!」 ぼくは、ユリアの手を、肩を、やさしく抱きしめた。ユリアの瞳を覗きこみ、 その奥にいる、本来のユリアに呼びかけた。 どくん。 ユリアの心臓が跳ねたのが、ぼくに伝わった。全身が、びくびくっと震えた。 そして…、ユリアの眼の色が、少しずつ変化を始める。 まなこを彩る、赤黒い闇の色の中に、紫の光がわずかに灯る。 それは徐々に広がりを見せたかと思うと、また闇に押しつぶされそうになった。 ユリアの瞳のまだら模様が、ぐるぐると廻り続ける。 今、ユリアは、自分を支配する闇と、必死で戦っているのだった。 さっきからずっと、ユリアの口から声が漏れ出ているのに、ぼくは気づいた。 ユリアは、何かを呟きつづけていたのだ。ぼくは、耳をそばだてた。 「あなたはどこ…、わたしはだれ…」 かすれるような、僅かな空気の振動だが、ぼくにはそれで十分だった。 再び、あの日の思い出が鮮明に頭の中に再現された。 トラキアの高台での、歌姫ユリアのコンサート。この歌は、 ユリアが孤独なとき、自分を励ますために歌うものだったと聞いた。 ユリアの声は小さく、至近距離でも、微かに息が漏れる程度しか聞こえない。 でも、ぼくの心には、美しいメロディーが流れ込んできた。 「にんげんとかみさま…昔のわたしと未来のわたし…。 別々に生きていると…心は通じないの…?」 トラキアでは、ユリアはこの先を覚えていなかった。今度も、歌えないのだろうか? そして、このまま心が闇に負けてしまうのだろうか…? そんなのは嫌だ。そう思ったときには、ぼくの口から、 新しい旋律が流れ出していた。 いいえ、 歩き出そう 心の地平線に向かって いつかわかりあえる 夢の交わる場所で そう… あなたと、わたしだから 歩き出そう ふたりで手と手をとりあって いつかたどり着ける わたしたちの未来へ そう… あなたは、わたしだから ユリアの耳元で、ぼくはやさしく歌いかける。彼女の表情に、徐々に温かさが戻っていった。 歌い終えたとき…、ユリアの瞳から、赤い影は消え去っていた。 「歌を忘れたら、思い出すのもいい。だけど、他にも方法はある。 …自分の手で、続きを作るんだよ。」 「……、セリス、様…?」 ユリアの眼が、焦点を定めつつある。ついに…、ユリアの瞳に、 ぼくの眼が映った。そこに向かって…。 「世界を救えなんて言わないよ。結婚だって、できなくてもいい。ただ…。」 ぼくは、やっと本心を告げることができた。 「ずっと、そばにいたいんだ。」 ユリアは、無言だった。ぼくをじっと見つめたまま、硬直している。 そして…、きょろきょろと左右を見まわし、自分の置かれた状況を確かめたようだ。 それが済むと、またぼくを見つめた。 「セリス様…。」 そして、繋いだ手を、ぎゅっと握り返してくれた。はじめて、 その部分から温もりが伝わってきた。そして、ユリアが見せたのは…。 「ありがとう…。本当に、わたしを護ってくれたのですね。」 ぼくとのはじめての出会いで見せてくれた、あの、心からの笑顔だった。 |