「歴史に学べ!」と政治宗教思想

(2001年9月16日、マルチくうねる)


 「聖戦に備えよ。死を恐れてはならない」

 2001年9月11日の、アメリカでの同時多発テロ。これを受け、 アメリカが報復攻撃を行うと言明。これに対し、 テロの容疑者と関係があるとみられる組織・タリバンの指導者から、 こんな声明が国民に出されたと報道されています。

 「聖戦」…この言葉が、ニュースでも強調され、 ぼくの心にも強く響きました。
 知っての通り、このページで扱っているゲーム(物語)のタイトルは 「ファイアーエムブレム 聖戦の系譜」です。略して「FE聖戦」。 その名の通り、「聖戦」はキーワードのひとつです。

 「歴史に学べ!」を書いたのは1年以上前。その動機は、実は FEそのものではなく。現実の社会問題に対して 自分なりのスタンスを表明したい、という思いがありました。
 日本でかつてテロ事件を起こした大規模な宗教団体と、彼らのその後。 これが、FEのロプト教団とかなり共通点があるな、と思いまして。 私見を述べようと思っていたのですが、機会を逸し、 しばらく放っておかれたままになっていました。
 今回のテロ事件を見て、もう一度これに真剣に取り組む気になりました。 犯人たちが、ロプト教団に重なって見えたからですね。 ぼくが興味を持ったのは、アメリカが報復で戦争を行うのが 正しいか否か、といったあたりです。
 この視点で、もういちどこの作品を読み直してみてはいかがでしょうか。

 「聖戦」…。
 その意味を正しく述べるのは難しいのですが、「宗教戦争」と意訳しても さほど大きな間違いではないでしょう。 ときには、極めて個人的な思い入れも含まれるかもしれません。 価値観の戦い、という言い方もできると思います。
 「ぼくは、聖戦という言葉が嫌いだった。人は、信じる神の為なら、 ここまで残酷になれるのかと思い知らされる。
 だけど、もしも、自分自身を投げ打ち、その存在を懸けて信じるものの ために戦うことを、聖戦と呼ぶならば。 ユリアの心を閉ざすものと、弱い自分自身に抗って、歩み続けることは…。
 これは、まぎれもなく、ぼくの聖戦だった。」 (「バカ殿セリス様・華麗なる日々」11章中編より)
 「バカ殿セリス様」の物語は、ユリアなしでは成り立ちません。 バカ殿セリス様にとって、ユリアの死はすなわち世界の崩壊、自分の死を 意味するわけで。だから、ユリアを守る戦いは、バカ殿セリス様にとって 「聖戦」であったわけです。
 この例で分かる通り、「聖戦」というのは、実は とっっても自分勝手な、わがままな戦いだと思うのです。 自分の思いを、人に押し付ける戦い。そう言ってもいいでしょう。

 アメリカは、これを「善と悪の戦い」と言い切りました。 自分(自由・資本・民主主義)が善、 テロリズムが悪であるというわけです。 このこと自体は、ぼくも賛成しましょう。ただ、そうは考えない人がいる、 ということがポイントなわけで。
 金を持つ者、強い者が勝つグローバル資本主義。 人間の能力でどんどん成長を追い求める姿勢。 一般市民を戦争に巻きこまない姿勢。 こういったものに相反する価値観が世に存在するということです。
 例えば、「一般市民をテロに巻き込むのは許せない」と思うでしょう。 ぼくもそう思います。ですが、それを大前提にしたまま、 そこで思考停止してしまっては、問題が解決しないのです。 彼らは、「一般市民をテロに巻き込んでよい」と思っているのですから。 これを解決するには、一歩進んで、 「なぜ市民をテロに巻き込んではいけないのか?」 「なぜ彼らは市民をテロに巻き込んでよいと思っているのか?」 「どうして違いが出ているのか?基本的な考えのどこがちがうか?」 を考える必要があるのかと。理解しないことには、いくら武力で相手を叩いても、 何も解決しないのではないかと思います。
 無論、アメリカの政治のトップに、そんなことが分からない人が いるはずはないと思いますが…。

 犯人たちがあれだけのことを成し遂げた底には、あれに人生の全てを かけるに値した強い「思い」があるでしょう。それがどんなものか、 歴史にうといぼくには分かりません。いや、歴史学者といえども、 実際にそれを体験した人でないと、本当には分からないのだと思います。 ただ…それは、「恨み」と呼ばれるものにも、 縁があるものだったかもしれません。
 だとするならば。アメリカが軍事力で彼らを徹底的に叩くことは、 どんな結果を招くでしょうか。

 「押さえつける力が強ければ強いほど、反発もまた強い。」
 「歴史に学べ!」6節のセリスの言葉。この節を、もう一度読みなおして いただけるとありがたいですが。 数百年にわたりイードに潜伏を余儀なくされたロプト教団と、 今回のテロ集団とが…ぼくには、「恐るべき思いの強さ」という点で、 重なって見えるのです…。
 「思い」を消すことは、おそらくできません。ナチスドイツの あれだけ強い「思い」をもってしても、この世からユダヤ人とその「思い」を 消し去ることは到底かないませんでした。
 ならば。その「思い」を理解せずして、平和は無いのでは ないでしょうか。

 ぼくは、絶対的平和主義者ではありません。 セリスがユグドラルで起こした戦争は、間違っていなかったと思います。
 ただし。
 戦争をする人は、戦争の後にどうするのか、どうやって、どんな平和を 築くのかを…敵の「思いの強さ」を頭に入れつつ…描いていく 責任があるのだと思います。

 人はなぜ聖戦を戦うのか。
 それは、戦わなければ自分の世界が、人生が、崩れてしまうから。 戦わなければ自分が生きている意味が無いから…。
 ですが。人はときにそれを変えて、再出発することが できるのではないか?少なくとも、そうしなくてはならない時が あるのではないか。それはとても苦しいことだけれど (例えば、ぼくに「ユリアが好き」という自分を捨てろと 言われたら…死ぬほど苦しいですけど…)。

 でも、ぼくは伝えたいです。
 ユリアに向かってゆっくり歩いたバカ殿セリス様のように。 ユリウスを救えないかと最後まで悩んだユリアのように。
 武器を使わない「聖戦」も、あるんだよ…と。

 セリスよ、人の悲しみを知れ…
 真実は一つだけではない…

 飛行機とともに空に散った犯人たち。
 彼らの真実は、どこにあったのでしょうか。



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